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されば若道のふかき事、倭漢に其類友あり。衛の霊公は弥子瑕に命をまかせ、高祖は籍孺に心つくし、武帝は李延年に枕を定めたまふとなり。
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このあと「我が朝にも……」と続いて、日本の歴史的に有名な方々の例が述べられるんですが、今回は、上の文章の最後に登場した李延年の伝説を見ていこうと思います。
◎李延年(りえんねん) ~『漢書』評林巻之九十三 佞幸伝第六十三~
『李延年中山の人。身及び父母兄弟皆故の倡なり。……』
李延年は中山(河北省)の人である。自身と父母兄弟はもともとすべて、倡(歌い手・楽人)であった。
延年は法にふれて、腐刑(=宮刑)に処せられ、狗監の中(天子の犬をつかさどる役所)に仕えた。
そのうちに、延年の妹が武帝(在位BC.141~87)に気に入られ、李夫人と号するようになった。延年は外戚となった。
延年はよく歌い、新しく変わった音楽を作った。
このとき武帝は、天地の祭祀を盛んにし、音楽をさせようと思っていた。そこで司馬相如らに命じて詩をつくらせた。
延年はすぐに武帝の意を理解して、作られた歌詞に弦楽器用の歌をつけ、新しい曲を作った。
そののち、李夫人は昌邑王を産んだ。
延年はこれによってさらにその地位を高くし、協律都尉(音楽をつかさどる長官)となった。また、二千石の印綬(身分をあらわす組みひも)を身に付け、帝と共に起臥した。その寵愛は韓嫣(かんえん*)と等しいほどだった。
ずいぶんと後になってから、延年の弟が中人(官女のことらしい)と密通し、その出入りも傲慢であった。
李夫人が死ぬと、延年に対する帝の愛もゆるみ、帝はついに延年兄弟を捕らえ、誅殺した。
武帝さま、何どんぶりですか、これは! 「兄」も「妹」も萌ワードではありますが、食べ合わせ的にはどーなんだ!?
まあ、延年は音楽の才能があるので良いのですが(『史記』には妹も舞の名手であると書かれている)、弟は素行が悪いですね。延年は愛されるのも憎まれるのも「とばっちり」、ちょっとかわいそうです。
しかし延年は、以前に宮刑、つまりアレを切られる刑に処せられています。コレは死刑に次ぐ重い刑だそうで、一体何をしでかしてしまったんでしょう!? 謎が残ります。
謎ついでに小さな疑問があります。佞幸にまつわる話は、先にも述べたように『史記』にも同様の内容で書かれています。その訳文では「延年の弟が官女と密通し」とあるのですが、『漢書』原文では「中人」となっています。
そこで「中人」を漢和辞典で調べてみると、「天子のそばに仕える人」とか「宮中の奥向きの仕事をする人」などとあり、どこにも「女」とはありませんでした。 ああ、また深読みしてしまう?
さて、本文中に出てきた「韓嫣(かんえん)」についてもご紹介しましょう。
韓嫣は李延年と同じく武帝に愛された士人です。
嫣は武帝が幼いころから勉学をともにし、親愛し合っていました。(『武帝膠東王爲る時、嫣上とともに書を学び相愛す。』)
武帝が太子→帝と成長してもその仲は変わらず、韓嫣は騎射や兵法の腕を持って尊重され、起臥も常にいっしょでした。
ところが、武帝の弟や皇太后(武帝の母)からの愛憎やらなんやらがからんで、韓嫣は皇太后から死罪を命じられます。武帝は韓嫣の命乞いをしましたが、許されずに死んでしまった、ということです。
幼なじみーーーー!! なにこの萌設定。
一緒に勉強していたところからすると、年も近いんでしょうか。となると、まさか「武帝受け」なんてコトも……;
武帝の在位が長いこともあり、彼の亡くなった時期と延年が現れた時期が不明なので、同時に愛されたのかどうかわかりませんが(この場合「上とともに起臥す」はどーなる?あぁ、3…)、さらに注目すべきことが!!
韓嫣が死んだ後、武帝にはまた別の寵臣ができました。名前は韓説(かんえつ)。
韓嫣の弟でーーす。武帝よ、どんだけ「兄弟」好きやねんッ!!
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