なんとか予告通り更新できました。指がかじかむッ! 前回から始まった稚児物語『松帆浦物語』の続きです。
**前回のあらすじ**
藤の侍従(通称・若君)は早くに父をなくし、兄と母に可愛がられて育った。ある年の春、北山に花見に来ていた若君(14)に一目惚れした宰相の君(30)は、文を送り、毎日のように若君の屋敷へ通った。はじめははにかみつつ断っていた若君だったが、宰相の熱意に次第に心を許し、後には宰相の住まいである岩倉まで伴い行くようになった。
◎『松帆浦物語』 その二
若君と宰相は心隔てぬ仲となった。宰相が支障があって一、二日現れない時は、若君は不思議なほどに心細く思われた。
さて、この若君に思いを寄せるものは多く、こなたかなたから花につけ紅葉に結びつけた恋文が、迷惑なほど集まってくる。しかし若君は、適当に返しをするものの、この宰相と心を二分する気持ちなどなかった。
若君と宰相が親しくなって三年が過ぎた。夏の雨が静かに降る日の長い頃、その時世を心のままに治めていらっしゃった大臣の御子・左大将殿の御前にて、人々が世の中の噂話などを気楽にしていたついでに、藤の侍従のお姿・心ざまが類稀なくすばらしいという話を誰かが申し上げた。すると左大将殿はお心を動かしなさり、若君に度々使者をお送りになった。そこで宰相が出向き、
「仰せごとはかたじけなくございます。参上したいとは思われますが、若君はこの頃ご病気を患い、臥していらっしゃいます。少しでも調子の良いときは参ります」
と、左大将殿の使者に伝えた。五、六日あって、またお使いが来た。今度は御文があった。
「吹く風の目に見ぬ…とかいう古事(古今集・貫之の歌)も思い知られるお心はおありだろうか。ご病気のほどが気がかりで、五月の雨の晴れ間は、心地も少しは楽になるのではないでしょうか。どうか思い立って欲しい……」
などと書かれていて、
ほととぎす恨みやすらん待つことを君にうつせる五月雨の頃
という歌があった。若君はその返しに
五月雨の晴れ間もあらば君かあたりなどとはさらん山時鳥
宰相はなおも若君の心地が良くないのを何度も申して、屋敷にこもらせていた。
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あぶない! 2月は短いんだった;
お久しぶりです。今回は稚児物語第三弾!! 『松帆浦物語』であります。
『松帆浦物語』は、『秋夜長物語』『鳥辺山物語』につづく稚児物語だそうで、登場人物やストーリーも過去の作品を踏襲した感じになっています。ということは、ラストもそんな感じになるわけで……。
しかし、パターンの中にも個性あり。過去の2作と比べながら読んでいただくと面白いかなぁと思います。
過去の2作はこちらでどうぞ。
『秋夜長物語』 →
■ (本ブログ姉妹HPに飛びます) 『鳥辺山物語』 →
■ (本ブログの過去記事)
◎『松帆浦物語』 その一
遠くはない世のことでしょうか、四条のあたりに、中納言で右衛門督(うえもんのかみ)である人がいらっしゃった。中将殿という御子がいらっしゃったが、独り子なのでさみしく思っていらっしゃった。しばらくするとまた御子がお生まれになった。老い先がみえて姿が非常に美しくていらっしゃるので、この上なく大切にお育てになった。
しかし父の卿がお亡くなりになってしまった。頼る方のないようにいらっしゃるので、中将の君は弟君をたいそうお可愛がりになり、十ばかりまでお育てになった。
そのとき、横河(よかわ:比叡山の一)に、禅師の房という彼らの叔父にあたる人が住んでいた。そして中将に言った。
「この若君をいたずらにご成長させるよりは、山に登らせて勉学を習わしなさってはいかがでしょうか」
このように度々勧めるので、兄の中将は弟君を横川へと登らせなさった。
横川では、若君は大方の学文にも和歌の道にも心を入れて(熱中して)、筆の取り方もしかっりとしている。ちょっとした遊びにも似つかわしく、心も人に優れていたので、一山から寵愛され、また共に学ぶ稚児たちからも親しまれ仲良くしていた。
そうしているうちに三年ほどたった。これほどの間この山に住まわせているので、この母君は「久しく見ぬは悲し」と言って、折々若君を里へお呼びになった。
あるとき禅師が申し上げた。
「若君は学問の方も聡く賢いお方です。このまま法師にさせて、父の御跡を弔わせなさってはいかがでしょう」
禅師は熱心に語るのだが、母君は、
「惜しい姿を墨の衣にやつしてしまうのも情けがないし、雲のように遠いところへやってしまうのもかわいそう……」
などと仰り、納得した返事もなさらないので、仕方がなかった。
その後は不安に思われたのだろうか、母君は若君を京に住まわせることを中将にもご相談なさった。兄君も母君のつれづれのお慰みにもと思われたのだろう、同じようにおっしゃるので、禅師も仕方なく、泣く泣く若君を京へ送った。
若君も横川に住みなれていらっしゃったので、ひっそりとした山水にも名残が多く、日ごろ一緒に遊んでいた稚児たちとも離れてしまうことが悲しかった。みな京近くまで見送り名残を惜しんだ。
さて、禅師が山へ帰り、若君が年月手習いなどをして住んでいらっしゃったところを引き開けてみると、たいそう美しい筆跡で、障子(ここでは襖のこと)に書き付けられていた。
ここのへに立ち帰るとも年をへてなれし深山の月は忘れじ (ここのえ=宮中)
これを見て、禅師や一山の者はみな涙を流した。
その後、若君は元服して藤侍従(じじゅう:天皇の近侍)と名乗りなさった。上げ劣り(元服で髪を上げたとき、以前より劣って見えること)もせず、ますます驚くほどの美しさでいらっしゃる。
十四におなりになった春のこと、以前親しくなった横川の法師や京でも殊に雅な男たちが大勢やって来て、
「北山の桜は今が盛りだと皆が言っています。侍従の君もご覧になってください。お供いたしましょう」
と、口々に言うので、深山隠れの色香も殊にゆかしく思われて、にわかに思い立った。
道中も人目が気恥ずかしいので、若君はわざとやつして(変装して)いらっしゃった。若者たちは馬を並べて道すがら眺め渡せば、遠き山の端はそこはかとなく霞みつつ、野辺の景色は青みがかっている。芝生の中には名も知らぬ花々がスミレにまじって色々に咲いている。雲井の雲雀が姿も見えずさえずりあっているのも、言葉にならないほどだ。目指す山はやや深く入ったところで、水の流れ、岩のたたずまいも、うつし絵(写生の絵)を見るように思われた。
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