*管理人出張のため、タイマー投稿でお送りしています*
江戸時代の少年青年たちの恋の指南書。その内容をちょっとのぞいて見ませんか?
というわけで、管理人の入手した江戸の「男色How-to本」の目次を翻刻してみました。
一冊目は『催情記』(「さいじょうき」と読む?)です。
明暦三年(1657)刊。若衆のたしなみを説いた内容になっております。
どんなことが書かれているかというと……
*『催情記』目次*
一、人のほるる次第 付目もと見付の事
一、初て情を請け返事の次第 付同心の返事無用の返事
一、間のつかひの事
一、咄数の事 付重て御咄有へきと思し召す方へ状の事
一、御寝様の次第 付夜いたむる次第の事
一、朝帰るいとまごひの事
一、一度はなしいやと思ふ次第
一、ちいんする次第 付間あしくなる事
一、物をくるる事
一、念者をつる事
一、こころもちかんよう(肝要)の事
一、かたしけなき御文躰の事
一、風呂入りの事
一、食物の事
一、さかつき(盃)の事
一、茶の次第
一、病中雨中見舞ひ状の事
一、つかひ音信の事
一、芸の事
一、若衆御病中の事
一、よろづ御たしなみの事
一、第一心中の事
一、あさおきの事
一、口中の事
一、衣装の事
一、かたぎぬはかまの事
一、上帯の事
一、下帯の事
一、扇の事
一、はなかみの事
一、手ぬぐいの事
一、にほひぶくろの事
一、楊枝の事
一、きんちゃくの事
一、手足の事
一、振さまたしなみの事
一、つめきりやうの事
一、にほひの事
一、目もとの事
一、よみかきの事
一、毛の事 付はなげの事
一、耳の事
一、かみゆひやうの事
と、恋のはじまりから後朝の振舞い方、さらに日常的に気をつけることまで、幅広くレクチャーしてくれるようです。
ちなみに中身はこんな感じ↓↓
目もとの事 みみの事 かミゆひやうの事 多少目次と相違ありますね。「目もとの事」には、
「いかにもいかにもしほらしく御わらひ有へし」
などとあります。愛されるためにする努力は女の子と同じですね。
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*来週、再来週(6/25~7/6)は、管理人出張のため、更新をお休みさせていただきます。ですがタイマー投稿でちょっとしたものをupする予定なので、お楽しみいただければ幸いです。*
今回は古典BL小説からはちょっと離れて、狂言歌謡をご紹介します。狂言歌謡とは、狂言の中で歌われる短い謡で、作品の流れとは直接関係ないものがほとんどです(酒宴の場面などに歌う)。なので小歌として独立しているものもあるみたいです。
と、細かい話は置いといて、カンタンに歌詞を鑑賞して妄想の足しにしてやろうという魂胆です。では、どうぞ~。
◎その一
石河(いしこ)藤五郎殿は。石を引きやるの。石に飾りの衣を着せて引きやるの。
我が殿子(御)は。先から二番目の大紋の袴に太刀をはいたが殿子じゃ。
先づは引いた引き振り、さても引いた引き振り。
人目だに思はずは。するすると走り寄つて。最愛(いと)し腰をしめふよ。
何に使うのか石を引いて運ぶ藤五郎殿。その行列の先から二番目にいるのが、この人のご主人だそうです。人目さえ気にしなければ、今すぐ走り寄って抱きしめたい。うわー、なんかキケンな感じvv スキあらばおかそーとしとるな……
◎その二
伊勢の千種の城攻むる寄せ衆にや。をれ(俺)が殿御はそれや隠れ有るまい。肩白の具足に、皆熊の靱(うつぼ)に腰小幡、赤い赤熊に白木の弓は我が殿。
諸願成、とにかくに引けや此の陣、積もりし寝物語しよ、諸願成。
こちらも「ご主人さま大好き」な歌。戦仲間に自慢しているのでしょうか。「諸願成」は「諸願成就」らしいので、戦に勝ったら殿と寝物語しようと考えているのかも知れません。下っ端の一兵士にそんな権限あるの?
◎その三
最愛(いと)し若衆との小鼓は。しめつゆるめつ、ほ、調べつ寝入らぬ先に。成(鳴)るかならぬか。
短いですが、とてもエロティック!! 「ほ」は掛け声です。小鼓のチューニングと若衆をうんぬんする様子を掛けているわけですね。謡の先生が可愛いお弟子をじっくり攻めているような……vv
その一にも出てきましたが、「最愛」と書いて「いとし」と読むなんて、日本語はズルいなぁ。あと、「しめる(=抱きしめる)」という言葉もなんかエロい!
今回は短いですが、これまでです。BL歌は、近代にもヨイのがあるのでいずれご紹介したいと思います(著作権大丈夫かな…)。
では、しばらく旅立ちます~。
前半はBL的盛り上がりに欠けていましたが(あぅ;)、さて後半はどうでしょう。
*前半のあらすじ*
和州(大和国)のある城主に召し使われていた室田猪之介(いのすけ)という少年は、女と疑われるような大変な美少年で、殿の寵愛も抜きん出ていた。だがある時、何者かが猪之介を中傷する張り紙を貼り付け、その内容が殿の耳に入ると、殿は真偽を調べもせず、猪之介の屋敷を閉門に処した。
猪之介母子は科(とが)の理由も分からず細々と暮らしたが、とうとう思いつめて自害しようとした。そこへ誰かが犬を遣わし、その背に食糧を乗せて運んでくれた。母子は自害を思いとどまり、そうしたことが二年余りも続いた。
◎「せめては振袖着て成りとも」(『武家義理物語』巻四の二)
光陰矢の如し。室田家が衰えてから、はや五年になろうとしている。長々の閉門には、心が弱り、病気もおこって、むざむざとこのまま果ててしまうのだろうか……と嘆いていたところ、諸神のお恵みであろうか、殿はある御法事の際、ふと猪之介の事を思い出され、お咎めをご赦免なされた。猪之介は有り難い次第だとお請けを申し上げ、ついでながら御訴訟申し上げた。
「とてものことに、只今まで閉門仰せ付けられましたお科の段々を承った上で、お許しに預かりたい願いでございます」
大殿もこれを至極にお思いになり、以前の落書きをひそかに猪之介に遣わされた。猪之介はしばらく思案をめぐらし、かねてから不仲にしていた小姓仲間の豊浦浪之丞が、自分をねたんでしたことだということを調べ出した。そしてその落書きを書いたのは、町家に身を隠して兵法の指南をしている浪人・岩坂金八という男だということも分かった。両人はともに切腹、打ち首に仰せ付けられた。猪之介の方は、殿が長々の難儀を不憫にお思いになり、元服を仰せ付けられ、二百石の御加増を賜り、御判役(主君の花押を書く役)となって、昔に優る御寵愛を受けることとなった。
【“「せめては振袖着て成りとも」(『武家義理物語』より) 後編”の続きを読む】
『武家義理物語』は、武士の世界・武士の精神を描いた西鶴先生の浮世草子のひとつです。そういうわけで、話の展開や登場人物の心理についていけない部分があるので、ご注意ください。例によって今回も、状況説明が主になりますので、重ねてご了承ください。
◎「せめては振袖着て成りとも」(『武家義理物語』巻四の二)
伏見の城山は今では牛馬を放す桃林の野となってしまった。昔はこの辺りはたいそう繁盛していて、諸国の大名屋敷が立ち続いていた。
その頃、和州(大和国)のある城主に召し使われていた室田猪之介(いのすけ)という少年がいた。猪之介は当時大変な美少年で、姿は弱弱しく、心ざしは強く、さながら女かと疑われ、秀吉公の御女中の”花”か”おちょぼ”か、この二人の艶っぽい姿にも見紛うほどであった。主人もひときわお可愛がりなさり、他の前髪(=小姓)よりも御寝間近く召され、ぬきんでて時を得ていた(栄えていた)。
こうした人もうらやむ幸せを、誰かがねたみ始め、恋に事寄せた落書きをし、猪之介の身の上の事をおおっぴらに悪く書き付けて、主人の御目に付くところに貼り付けておいた。すると、横目の役人(家中の武士の監視役)がこれを見つけた。役人は善悪何事も隠さずに申し上げるという神文(誓約書)を立てていたので、このことをありのままに申し上げると、主人は御詮議もなさらず、もっぱらご立腹あそばし、猪之介には何の仔細も仰せ渡されず、お国許に追いかえされ、母親にお預けになった。
「屋敷には閉門を申しつけよ」
岡沢三之進という留守居役人にはそう仰せ付けられ、岡沢は御意の通りに門を閉じ、門前には厳しく番をつけ、親類でさえも制限して、出入りを堅く吟味した。
猪之介親子は、何の科(とが)でこうなったのか分からなかった。切腹するわけにもいかず、しかたなく閉じこもっていたが、下働きの者たちはみな渡り奉公であるので、主人のこういう苦しい時期を見捨て、自分の身を第一に思って、一人残らず立ち退いてしまった。つらい時分にいっそう悲しさが増すのだった。
朝夕の煙も絶え絶えになり(←食事を作れなくなっている)、母は子のことを不憫に思い、慣れない手つきで米を炊かれるので、猪之介は見るのも悲しく、せめては井戸の水をくみ上げ、音を忍ばせてすり鉢をするのだった。
せつない今日を暮らし、明日のことも分からず、命があるばかりに情けなく感じる。日を重ね夜を数え、月も覚えず年も忘れ、軒端に咲く梅の花を暦代わりにして、さては春になったのかと驚き、ただ一心に動き、夢の中で物を言う心地で毎日を過ごした。
【“「せめては振袖着て成りとも」(『武家義理物語』より) 前編”の続きを読む】
美少年の敵討ち。前回の続きです。
*前回のあらすじ*
遠州掛川の家中に、三宅玄蕃という男がいた。玄蕃は兵術の達人であったが、わがままなところがあり、ある時たった一通の文を残して勝手に国を去ってしまった。この行いに怒った太守(大名)は、幾人かの討手を遣わし、玄蕃を討とうとしたが、みな返り討ちにあってしまった。
この討手の一人、染川吟右衛門の弟・吟之助(14、児小姓)は、兄の敵を討つべく、供を一人だけ連れて旅立った。ようやく発見した玄蕃は都で兵術の師匠をしており、吟之助はその弟子となって玄蕃に近付いた。
兵術の達人である玄蕃を討つにはどうすればよいかと考えた吟之助は、玄蕃が男色好きであることを利用することを思いつく。
◎「染川吟之助十四歳にて強敵を討事」(『怪醜夜光魂』巻二の七より)
この謀を供の藤左衛門にも言い聞かせ、吟之助は美を飾って玄蕃の所へ毎日稽古に通った。吟之助は隠れない美童であり、玄蕃の門弟や近所の男女で心を寄せない者はなかった。
本より玄蕃は吟之助の姿を一目見たときからどうしようもなく思いつめ、折に触れ事により情の心を知らせてきた。吟之助は心の中で「さあ、うまくいった」と思った。
ある人目のない時、玄蕃は吟之助の手を取って言った。
「申さずとも俺の思いは、目色でもご存知とは思うが、君の態度はつれないままだ」
といろいろと口説くので、吟之助は会釈して(にっこりうなずいて)、
「取るに足らない私にそのように思し召されてくださるなんて、嬉しく思います。ともかくも仰せに従いましょう」
と言うと、玄蕃は大いに喜んだ。
「それならば宵の内は門弟の人目が多い。今夜四ツ頃必ずお待ちしています」
と、吟之助を帰した。
やがてその刻限になると、吟之助は家来・藤左衛門と謀り、酒を持ってやって来た。玄蕃は喜び、本より酒を好む事も吟之助はかねて知っていたから、思うままに酒を勧めると、玄蕃は前後も知らぬほどに酔いつぶれて眠ってしまった。吟之助は首尾良しと刀を抜き、
「いかに三宅玄蕃。討手として其方に討たれた染川吟右衛門の弟、同苗吟之助が相手をする。起き上がって勝負をせよ!」
そう言って起こすと、玄蕃は「心得た」と起き上がろうとする。そこを小腕といいながら、日頃の念力岩をも通す勢いで、玄蕃の弓手(左手)の肩先あら乳の先まで切り下げた。さすがの玄蕃も深手に弱り、そのまま二の刀で首を打ち落とした。玄蕃の家来は奥の様子を聞いて駆け出そうとしたが、藤左衛門に出会い、ただ一太刀に殺されてしまった。
さしもの武勇者も男色に油断して、あえなく吟之助に討たれたのだった。
【“「染川吟之助十四歳にて強敵を討事」(『怪醜夜光魂』より) 後編”の続きを読む】
今回は久しぶりに敵討ちモノです。ファンタジーにおける「剣と魔法とお姫様」以上に「武士と衆道と敵討ち」は定番メニューですね。
原文の長さと状況説明の都合上、前編は前置きになってしまっています。メインは来週中に早めにお届けしますので、ご了承ください。
◎「染川吟之助十四歳にて強敵を討事」(『怪醜夜光魂』巻二の七)
*前略*
遠州掛川(現静岡県西部)の家中に、三宅玄蕃という男がいた。三百石を領じ、戸田流の兵術に詳しく、怪力で六尺余(180m以上)の大男であった。しかし、この男はわがままで、人を人とも思わず、ある時太守(大名)に不足を言い、一通の文を残して国を立ち退いてしまった。
太守は大いに怒り、玄蕃を探して討つために長坂という男を遣わしたが、長坂は返り討ちにあってしまった。ますます怒りを強くした太守は、今度は家中で武勇の達人と言われる染川吟右衛門を討手とした。吟右衛門らは玄蕃を探してその隠れ家に押し入ったが、玄蕃も兵術の達人であり、またしても返り討ちにあってしまった。
掛川の太守は立腹し、「二度までも討手を討たれるとは、世間の風聞もどうなることか」 そこで今度は多勢をつかわし、討ち取ってやろうということになった。
染川吟之助という児小姓は、この度玄蕃に討たれた染川吟右衛門の弟で、今年十四歳になる少年である。国中に並びない美童であったが、兄・吟右衛門が玄蕃にやみやみと討たれた無念は骨髄に徹し、吟之助は太守の御前に出て申し上げた。
「この度の玄蕃の討手には私を仰せ付けてください。殊に紛うことなく兄の敵でございますから、本望達し申したくございます」
吟之助は涙を流して願ったが、太守は、
「玄蕃という者は、なかなか其の方などの小腕に討たれるような者ではない」
と、お許しの気色もない。
だがその夜、吟之助は一通の文を残してどこへともなく立ち退いてしまった。その書置きにはこう書いてあった。
一、私儀、此度御国を立ち退き申す趣意は、三宅玄蕃は御国の讐敵、殊に私兄の敵に御座候へば、段々お願い申し上げ候へども相叶い申さず、御免も御座なき所に、御国を立ち退き御意を背き申す儀、不屈に思し召され候はん。その段は宜しく御執り成し頼み上げ候。たとひ玄蕃何国に罷り在り候とも、命を限りにたづね出し、玄蕃が首を引きさげ罷り帰り、その節はお断め申し上ぐべく候。 以上。
三月十五日 染川吟之助
東城将監殿 内海亘理殿 【“「染川吟之助十四歳にて強敵を討事」(『怪醜夜光魂』より) 前編”の続きを読む】