どうもお久しぶりです。先週は野暮用が重なって更新できず、無念でした。
さて、そろそろ春めいてきましたね。この時期何かを成し遂げたり、おめでたいことがあったりすると、よく「桜が咲いた」なんて言います。しかし、それより先に咲く、大事な花があるじゃないですか!
というわけで今回は、
「衆道の花・
梅 特集」
です。まずはこの俳句をみてください。
梅は花の兄よ弟は児(ちご)ざくら 未得(石田未得)
梅は一年で最も先に咲く花と言うことで、「花の兄」という雅称を持っています。上の句はそこから、衆道の兄分(念者、年上の方)を連想したものです。それから、
梅柳さぞ若衆哉女かな 桃青(松尾芭蕉)
というように、梅を若衆にたとえて詠んだ句もあります。芭蕉さんがどうやらコッチの人らしいというギワクは後にして、どちらにせよ、梅が衆道をイメージさせる花であることは間違いありませんね。ウチのブログ名の由来もコレです^^
梅を若衆にたとえた例をもう少し見てみましょう。
男色と言えばおなじみの西鶴先生の『男色大鑑』ですが、この巻一の(一)「色はふたつの物あらそい」でも、女色と男色を比較して、こんなふうに言っています。
惣じて、女の心ざしをたとへていはば、花は咲きながら藤づるのねじれたるがごとし。若衆は針ありながら初梅にひとしく、えならぬ匂ひふかし。(原文引用)
それから、こちらも当ブログ頻出の『男色山路露』序文ですが、
花といえば桜に限り、色といえば女にかぎると、一図になづみたるは(こだわるのは)、一等向上の一路(仏語:最高の悟りの境地)を知らぬから也。
真の雅なる一双眼(両目)を具(そなえ)てみれば、桜はぼじゃぼじゃ(ふっくらとしたさま)として、どこやらもたるる風情あり。只すんとせし(すっきりとした)梅が枝の、処々(ところどころ)蕾に浅き色をふくみ、しかも情の香をまじへて、花の兄ぶん弟ぶんのえならぬ契り。是を好むは、粋の潔粋(きっすい)なるべしと…… (原文引用、一部表記改め)
どちらも本の内容が男色賛美的なだけに比較の仕方はアレですが、なかなかいい文章だと思います。梅のすきっりした感じが、若衆の凛とした姿や心に通じるというイメージのようです。それに「香」もポイントみたいです。確かに梅には独特の香りがありますよね。それも甘いだけでなく、どこかつんとした感じの……。そのあたりが「針ありながら」病み付きになってしまう衆道の魅力なんでしょうか。
次は、時代を江戸からずっとさかのぼって、和歌の時代に行ってみましょう。
【“梅は花の…… ~∵梅まつり∴~”の続きを読む】
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西鶴先生プレゼンツの純愛(?)、後半です。覚悟はよろしいでしょうか。管理人がぐだぐだしますんで。
◎「念者はしらぬ思ひするかな」(『嵐は無常物語』より) 後編
*前編のあらすじ*
歌舞伎役者・嵐三郎四郎は、その美貌と侠気な性格で人々の恋の種となっていた。そのころ、浪人の息子で久松という名高い美少年が偶然、三郎四郎の芝居を見物して、彼を念者にしたいと思うようになっていた。
久松は思いの丈を書き綴った文を三郎四郎に送ったが、三郎四郎は「若衆から念者を恋焦れるなどということは前例のないことだ」と真に受けず、浮気な後家の策略であろうと早合点して、その後家をからかうために、その夜に大和橋で遭う約束を言い遣わした。
その後、懇意にする役者にこのことを語ると、
「一生のお願いです。私にこの恋を譲ってください」
と、その役者は夜の闇に紛れて、三郎四郎の衣装に身を包み、三郎四郎になり替わって約束の橋に向かった。
しかし、そこにいたのは思惑とは違った若衆であった。若衆は待ちかねていたという様子で、物も言わぬ先に泣き出した。この役者は驚いて、
「私は若衆嫌いで、女遊びだと聞いて、三郎四郎にこの恋をもらってきましたのに、これは思い違いのことです」
と、事の次第を語った。すると、久松はその袖にすがって、嵐三郎四郎を恋焦れる心をすっかり打ち明けたので、この役者はあきれて、
「世はさまざまといいますが、若衆の方から念者を慕うというのは、例の少ないことです。この話はわたしが取り持って、いつまでもその思いと情けを、いっそう語られるようにしましょう」
と言って、三郎四郎にあらましを聞かせ、その夜のうちに引き合わせた。
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「純愛と云うは死ぬこととみつけたり」な昨今の小説・映画界ですが、最近では「愛しているなら私を殺して」と言われて本当に殺してしまった、なんてお話が話題になってるみたいですね。では、その逆、「愛しているなら死んでください」と言われたら……?
今回そんなお話を提供してくださるのは、ご存知、井原西鶴先生です。西鶴先生ですからね。こんな風に前振ると、純愛っぽいですが、西鶴先生ですからね(←しつこい)。見てください、タイトルからしてなんだかイヤ~な感じがします。あまり期待をしないで読むことをお勧めします。
**前説**
『嵐は無常物語』は、役者・嵐三郎四郎の恋と死をめぐる物語です。
嵐三郎四郎というのは実在した歌舞伎役者で、少年時代は江戸で若衆形・中村勘之介として活躍(当然お勤め経験アリ)、後に京に上り、名を嵐三郎四郎と替えて立役として名声を得ました。三郎四郎はその美貌と粋でさっぱりとした気性(侠気というそうな)で、若衆のころは伊達な旗本衆たちの、大人になってからは女性や若衆たちの恋の種となっていたそうです。
そんな三郎四郎は若くして自害してしまいます。理由は病気と借金ということですが……。
◎「念者は知らぬ思ひするかな」(『嵐は無常物語』より)
**前略**
当時、京都には、いろは組という乱暴な男たちの集団があった。人々は分別して、彼らとすれ違うときには必ず道を譲ったものだったが、三郎四郎は気が強く、しかも腕も立つので、いろは組を恐れることなく、自由に振舞っていた。
このように度胸もあって小気味のよい三郎四郎を慕わしく思う舞台子も多く、彼を頼って兄弟の契約をする者は数知れなかった。この契約は、確かに恋とはいいながら、みな我が身の無事を祈る自分勝手なものだったが、こうして三郎四郎は、毎日念者であることが珍しくない身の上であった。
ちょうどその頃、地若衆(=素人の若衆)に、東寺の裏門辺りに住む柳田久夢という浪人の一人息子で、久松という名高い美少年がいた。若衆盛りで、その美しさはいちいち言うまでもなく、おそらくは美男美女の恋の結晶が生じて、このような風流な姿をつくったのだろう。彼の髪型をまねて、惣釣りのはね髪先という結い方が流行ったほどである。
この若衆の後姿を見れば、東寺の弘法大師の木像さえも身動きなさって、手に持つ独鈷を捨てて、指先につばをお付けになったというのもおもしろい話だ。木像でさえこの有様だから、ましてや東寺の法師たちが、仲介人を立てて恋文を送ったというのももっともなことである。
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