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梅色夜話

◎わが国の古典や文化、歴史にひそむBLを腐女子目線で語ります◎(*同人・やおい・同性愛的表現有り!!)

『あやめぐさ』 ~人~

 女形・芳沢あやめの語録『あやめぐさ』、最後はあやめさんと共演者の方々のエピソードです。


◎『あやめぐさ』~人~
 (各条の頭の数字は、原典での登場順です)


18、あやめが申されるには……(以下あやめの生い立ち)
 私は幼少から道頓堀(大阪の劇場街・花街)に育ち(←色子として)、綾之助といった時から、橘屋五郎左衛門さまの世話になっていました。
 五郎左衛門さまと言うのは、丹波(現京都府)の亀山近所の郷士(土着の武士)で裕福な方でした。たいそう家柄の良い方で、能をよくなされました(能は上層の町人・武士の教養)。親方(あやめの抱え主)は三味線方だったので、三味線に精を出せと言われている合間に、五郎左衛門さまをお客したことは幸いでした。
 親方が、とにかく(五郎左衛門から)能を習っておけと言ったので、二三度頼んでみましたが、五郎左衛門さまは承知せず、
 「女形の仕内(しぐさ・表情など、演技)に精を出しなさい。おおかた人に知られるようになるまでは、外の事は無用だ。能に執心すれば、本体(歌舞伎・女形)の仕内の心がけがおろそかになる。そのうえ能と言うものは、なまなかに覚えては歌舞伎のためによくない。なぜかといえば、仕内がぬらりと(掴みがたく)なる。それでもやはり能がしたいと思うか? 歌舞伎の舞をよくこなした上で、能もやってみたければ、好きにしなさい」
と言って、お教えになりませんでした。
 そののち五郎左衛門さまの世話で親方から出て(身請けされて)、嵐三右衛門どのの取り立て弟子となり、吉田あやめ(伝未詳)と私吉沢あやめは、一度に舞台に出ました(一緒にデビューした)。吉田にし負けることはたびたびでしたが、吉田は北国屋さまというお方に能事を少し習っていたため、能仕立の所作をもって、さいさいの当りをとろうとなされたけれど、私はまた地の仕内(写実芸)にのみ骨を折って勤めました。
 いつしか私は名を知られるようになり、吉田は相手にする人もいなくなって、今は役者も辞めてしまいました。それこそ五郎左衛門さまの言葉が思い当たりました。その心が忘れがたく、私は(副業の店の)屋号を橘屋とつけ、五郎左衛門さまの替名(遊里での仮名)をもらい、権七と名乗っているのです。
 ……と、(著者に)ひそかに話されました。

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『あやめぐさ』 ~色~

 前回に引き続き、元禄の名女形・芳沢あやめの語録『あやめぐさ』から、今回は実生活や精神面での心得を取り上げたいと思います。深いです。


◎『あやめぐさ』~色~
 (各条の頭の数字は、原典での登場順です)

07、女形は色(色気)が本(もと)である。もともと生まれ付いて美しい女形でも、取り回し(身のこなし)を立派にしようとすると、色が褪めてしまう。また、気をつけてしなやかにしようとすれば嫌味になる。
 それゆえ平生を、女子(おなご)として暮らさねば、上手の女形とは言われ難い。舞台へ出て「ここは女子の要のところだ」と意識するほど、男が出てしまうものである。常が大事と知りなさい。


11、女形でありながら「もしこれでうまくいかなかったら立役(男役)に替わろう」と思う心が付くやいなや、芸は砂になる(ダメになる)ものだ。本物の女子が、男にはならないと思って承知しなさい。本物の女子が「もはやこれではすまない」と言って、男になれるだろうか。そんな心では、女の情には疎いはずだ。


13、女形は貞女を乱さぬというのが本来である。これを踏まえて本物の女と同じ道理を合点するように。どれほど大当たりのする芝居であっても(貞女を乱すような役ならば)、断りなさい。女形の方から、役を替えてもらうことを言い出すのは、この場が第一である。

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『あやめぐさ』 ~芸~

 ああ、もうすぐセンター試験なんですね。ワタクシも数年前に受けましたよ。勉強すること自体はそれほど苦ではないんですが、試験はその出来によって人生を決めてしまうのがおそろしいトコロ。受験生の皆さん、頑張ってください!
 ところで、ワタクシが一番点が取れると思っていた科目は「国語の古典・漢文」と「日本史の文化史」ですが、その理由はお察しの通り。ここでちょっと、ワタクシが「出題してほしかった歴史上の人物」をあげてみたいと思います。彼らが出てくりゃもっとマシな結果になったのになぁ。
 まずは得意ジャンルは武家物・好色物、二つ合わせた男色物。浮世草子作家の井原西鶴! それから、画家・作家・男色家。希代のサイエンティスト・平賀源内! あまり知られていない人では、男色和歌集『岩つつじ』編纂。国学の祖・北村季吟! そして、元禄の上方に咲いたむらさきの大花。クイーン オブ 女形・芳沢あやめ!

 今回ご紹介する『あやめぐさ』は、そんな女形の代表格・芳沢あやめについて、福岡弥五四郎という人が書いた本です。今風にいうと『あやめ語録』とでも言えるでしょうか。
 この書には、あやめの女形としての心構えが語られています。全29条。今回はその中から、芸事に関する記述を抜き出していくつか見てみたいと思います。女形から見た男と女。勉強になります。


◎『あやめぐさ』~芸~
 (各条の頭の数字は、原典での登場順です)

01、ある女形が芳沢氏に問うた。「女形はどのように心得たらよいですか」
 芳沢氏はこう答えた。
 「女は傾城(遊女)さえよくできれば、他の役はみな簡単にできる。その訳は元が男であるために、きりっとしたところは生まれ付いて持っている。男の身で、傾城のあどめもなく(無邪気な)、ぼんじゃり(愛らしくゆったり)とした様子は、よくよく心がけないとできない。だから傾城についての稽古を、第一にしなさい」


02、袖崎歌流(かりゅう)は、もともとは「香龍」と書いたのを、「龍という字は女形の名前にしては強すぎる」と芳沢が意見したので、「歌流」と書き替えたのだった。
 あるとき歌流が狂言(芝居)の仕様を尋ねたところ、芳沢はこう答えた。
 「家老の女房役で敵役を決め付ける時、武士の妻だからと思う心があるため、刀のそりを打つ(刀に手をかける姿勢)のが、必ず立派なものになってしまう。武士の女房だといっても、常に刀を差しているわけではないから、刀の扱い方が勇ましすぎるのは下手の仕内(演技)である。刀を恐れぬ、というくらいの演技がよい。
 なんでもかんでも、詰め寄るセリフの際に、舞台を叩いて刀の柄に手を掛けるのは、帽子(女形を表す紫帽子)を付けた立役(男役)である」


03、芳沢氏はこう言った。
 「女形の仕様は、形をいたずらに(みだらに、色気のあるように)、心を貞女にしなければならない。ただし、武士の妻だといって、ぎこちない(無愛想な)のは見苦しい。きりりとした女の様子を演じるときは、心をやわらかにすべきである」


06、「武士の女房(役)になって、刀を取り回すとき、大勢に取り囲まれて、たとえばお姫様をかばっての演技では、いまにも男勝りに刀を扱うべきである。ここを大事と忠義の心のせまる時には、さすが武士の妻である。
 座敷(の場面)にて敵役を勤めるときは、まだ最後の瀬戸際ではないから、刀さばきはおだやかにしなさい」
と、たびたび市村玉柏へお話なさるのを(著者が)聞いた。これは玉柏が大勢に取り囲まれたときの演技がつたないための異見と思われる。

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第二回 新春まつり

 あけましておめでとうございます! 今年もどうぞよろしくお願いします。週一更新頑張ります。
 


 というわけで、唐突ですが今年もやります「春」まつり。江戸のBL春本『男色山路露(やまじのつゆ)』より、今回は頭がぼぅっとするぐらいメデタイお話。
 エロは最後にちょこっとですので、そこだけ反転でお楽しみください。

 ではどうぞ!


◎偏(へん)なる恋(『男色山路露』より)

 讃岐の国、白たきの宮というところに、弥五八という有名な金持ちの郷士(ごうし:武士でありながら農村に住んで農業をいとなむ者)がいた。
 この男は生まれ着いての女嫌い。「衆道こそ恋の最上」であろうと思い込んでいたが、「芝居の色子どもは、姿はあでやかで綺麗だが、偽り飾って真(まこと)がなく、まったく面白味がない」と見向きもしなかった。「何卒我が心に叶う地若衆(素人の若衆)はいないものか」と一心に思ったが、京大阪へ上っても、望むような若衆には出会えず、明け暮れ心を苦しめていた。

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