梅色夜話

◎わが国の古典や文化、歴史にひそむBLを腐女子目線で語ります◎(*同人・やおい・同性愛的表現有り!!)

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「一乗寺僧正の事」(『宇治拾遺物語』より)

 今回は『宇治拾遺物語』という説話集から一つ。本の名前は聞いたことある方多いのでは?

 
◎「一乗寺僧正の事」(『宇治拾遺物語』より)

 *前略*
 一乗寺の僧正(そうじょう:僧官の最上級)は、極度の苦行を行い、高い験力を持っていた。したがって、彼の僧坊の周りには人々が集まり、田楽や猿楽の芸人などがひしめき、さらに物売りたちがやってきて市をなした。こうしてこの僧正のもとには、世の宝という宝が集まっていた。
 (以下、猿楽・田楽に関する専門用語が多数出ますが、ほとんど未詳なので軽く流して御覧ください)


 僧正はそれ以外に、呪師(じゅし:芸能の一)の小院(こいん:年少の法師の意。今回は童の芸名)という童を寵愛なされた。
 あるとき、小院は鳥羽の田植えに「みつき(未詳)」をしていた。以前は杭の上に乗りながら「みつき」をしていたが、このたびの田植えには僧正も居合わせていた。小院は近頃するように、肩にたちたちして(?)、こはゝ(小幅?)から出ると、大勢の見物人もたいそう驚いたのだった。

 僧正はこの童をあまりに愛しく思うので、
 「今のままではくだらない。法師になって夜昼離れず、私のそばにいなさい」
 しかし小院は
 「さあ、どうしましょう。今しばらくはこのままでいたいのですが……」
と言う。それでも僧正は小院愛しさに「ただなれ」と言うので、小院はしぶしぶ法師になった。

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「隆国卿頭と為て……」(『古事談』より)

 前回の特集もそうでしたが、歴史はナマモノです。実在した人物を扱うわけですから、何かと気を遣わなければなりません。
 しかし今回は、そんな中でも最も触れてはならないお方の御エピソードを、恐れながらご紹介してしまおうと思うわけです。だって、ものすごく面白いんですもの!!

 『古事談』は鎌倉初期に成立した説話集で、平安中期までの史実・伝説などを集めています。これからご紹介するお話は、文章があまりにも短く、しかし衝撃的に秀逸なので、適宜解説を加えつつ、原文全文を引用したいと思います。
 
 *ご注意*
 歴史や歴史上の人物に関して譲れない観念がある方、それらを男色と結び付けたくない方は御覧にならないほうがいいでしょう。しかし、これはあくまで『古事談』に書かれたモノであって、紛れもない事実であるとも言えないし、もちろん管理人の創作でもありません。そこから発生する管理人の妄想と独り言はいつもの調子です。

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重陽企画◎唐土佞幸伝説 其の六

 今回をもって、重陽企画は最終回とさせていただきます。もう冬将軍の足軽部隊が日本海までやって来ているそうですし;
 さて今回は管理人がこのブログを初めて以来の大変な回でした。なぜなら、『漢書』の書き下し文が載せられた文献を発見できず、頼みの『史記』にも転載されていなかったため、おおむね返り点と送り仮名の付いた底本から、自力で訳すことになってしまったからです。
 なので、以下の文章は管理人の高校生レベルの漢文知識から導き出されたちょっとアヤシイ日本語訳です。辞書にも載ってない漢字や言葉も多少あり、憶測・偏見・妄想が混入している可能性が大きいのでご注意ください!!


◎董賢(とうけん) ~『漢書』評林巻之九十三 佞幸伝第六十三~

 『董賢字は聖卿。雲陽の人なり。……』

 董賢は字(あざな)を聖卿といい、雲陽の人である。
 父は御史(官吏の監督・不正糾弾をつかさどる役人)となると、賢を太子の舎人(雑務役)に任命した。
 太子は哀帝(在位BC.7~1)として即位した。賢もそれにしたがって、郎(官庁の中級役人)となった。
 董賢は二年あまり、時刻を奏す役として殿下にいた。その人となりは美麗であり、自らもそれをうれしく思っていた。
 あるとき、哀帝はその儀貌(整った顔)を遥かから御覧になり、ふとあやしんで、それと見分けて董賢に問うた。
 「おまえは舎人の董賢か」
 よって、帝は董賢を召してともに語らうようになった。
 董賢は任命されて、黄門郎(帝の侍従職)となった。これが寵愛の始めである。
 帝は賢の父親までも雲中(山西省)の領主とした。そのすぐ後、父親は召しだされて霸陵(文帝の墓)の令(長官)に任命された。その後は光禄大夫(宮殿の守備をつかさどる役所の次官)となった。
 董賢への寵愛は日に日に甚だしくなった。
 賢は駙馬都尉侍中(侍中は本職以外の役のこと)となった。帝が外出するときはすぐに参乗して(おそらく馬車?)その左右に侍った。
 董賢はわずかな期間で巨万の金を賜り、その寵愛ぶりは朝廷を震撼させた。
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重陽企画◎唐土佞幸伝説 其の四・五 

 えー今までこの企画で取り上げてきた方々は、古来の衆道の例として、さまざまな古典文学(無論BL)に紹介されているわけなんですが、その証拠として、かの『男色大鑑』の一文を引用したいと思います。

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 されば若道のふかき事、倭漢に其類友あり。衛の霊公は弥子瑕に命をまかせ、高祖は籍孺に心つくし、武帝は李延年に枕を定めたまふとなり。
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 このあと「我が朝にも……」と続いて、日本の歴史的に有名な方々の例が述べられるんですが、今回は、上の文章の最後に登場した李延年の伝説を見ていこうと思います。


◎李延年(りえんねん) ~『漢書』評林巻之九十三 佞幸伝第六十三~

 『李延年中山の人。身及び父母兄弟皆故の倡なり。……』

 李延年は中山(河北省)の人である。自身と父母兄弟はもともとすべて、倡(歌い手・楽人)であった。
 延年は法にふれて、腐刑(=宮刑)に処せられ、狗監の中(天子の犬をつかさどる役所)に仕えた。
 そのうちに、延年の妹が武帝(在位BC.141~87)に気に入られ、李夫人と号するようになった。延年は外戚となった。
 延年はよく歌い、新しく変わった音楽を作った。
 このとき武帝は、天地の祭祀を盛んにし、音楽をさせようと思っていた。そこで司馬相如らに命じて詩をつくらせた。
 延年はすぐに武帝の意を理解して、作られた歌詞に弦楽器用の歌をつけ、新しい曲を作った。
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