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梅色夜話

◎わが国の古典や文化、歴史にひそむBLを腐女子目線で語ります◎(*同人・やおい・同性愛的表現有り!!)

重陽企画◎唐土佞幸伝説 其の三

 月刊『演劇界』12月号、なんか良かった……。ついにBLな演目も復活しつつあるのですね。生で観たいけど時間もお金もない。脚本翻刻されてるといいんですが……。
 さて旧重陽も終わり、もう11月ですが、もう少しこの企画は続きます。


◎通(とうとう) ~『漢書』評林巻之九十三 佞幸伝第六十三~

 『通は蜀郡南安の人なり。……』

 通は蜀郡(四川省)の南安の人である。棹で以って船を操ることに長けていたので、黄頭郎(こうとうろう:船頭)となった。
 孝文帝(前漢即位BC.180~157)はあるとき夢を見た。その夢の中で文帝は、天に上ろうとするができないでいた。
 すると、一人の黄頭郎が現れて文帝を後から押し、天に上らせてくれた。
 文帝が振り返ってその黄頭郎の衣の背中を見ると、帯のあたるところがほころびていた。
 文帝は目覚めると、漸台(ぜんだい:未中殿の蒼池の中にある台)に行って、夢の中でひそかに押し上げてくれた者を捜した。
 その中で通という者を見ると、その衣の背がほころびていた。夢の中で見たそれである。
 召して姓名を問うと、姓は、名は通といった。
 文帝はたいそう喜び、日増しに尊んで寵愛した。
 通もまた慎み深く、外交を好まず、休暇を賜っても外に出ようとはしなかった。このため、文帝は十数回にわたって通に巨万の金を与えた。
 通の官位は上大夫にのぼった。
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重陽企画◎唐土佞幸伝説 其の二

 一年前のワタクシを思い出してみますと、ものすごく『あらよる』を観たがっていたのでした(そして年末実行)。そして今年は『王の男』が気になっております。本国ではかなりの成績だったみたいですが、どうなんだろう……。BL雑誌でも紹介していたぐらいですし……ねぇ。

 さて今回は、中国における御小姓のはじまり?とも思われる方々をご紹介します。


◎籍孺(せきじゅ)&閎孺(こうじゅ) ~『漢書』評林巻之第九十三~

 『漢興て佞幸の寵臣。高祖の時には則ち籍孺有り、……』

 漢が興る(BC.202)と、佞幸の寵臣が現れた。高祖(前漢初代)の時には籍孺が、孝恵(前漢二代)の時には閎孺という少年が愛された。
 この両人は、特に才覚があったわけではなく、婉媚(美しさとこびること)によって貴幸(寵愛)を受け、上とともに起臥した。
 公卿はみな、この二人を通して奏上した。
 それゆえ、孝恵の時には郎侍中(ろうじちゅう:近臣)たちはみな、シュンギ(鳳に似た美しい鳥)の羽で飾った冠をかぶり、貝で飾った帯を締め、脂粉(紅と白粉)をつけた。つまり、籍や閎の同類となったのである。
 籍と閎の二人は、安陵(あんりょう:孝恵帝の墓のある地)に移って家をかまえた。





 短いですが、これだけです。本文を信じると、やはり彼らが歴史上初の御小姓のような印象を受けますね。籍と閎がならべて紹介してあるので、初代・二代と通して活躍したのでしょうか。
 彼らは才能はありませんでしたが、その美しさによって愛されていました。彼らの影響力は大きく、家臣たちは彼らを通して帝にまみえただけでなく、派手に着飾ったり化粧をしたりしたようです。宮中に化粧した派手な格好の男性が大勢働いていたとしたら、その光景はちょっとした異世界ですね;

 今回は漢字にも少し注目してみたいと思います。
 籍孺・閎孺を完全に日本語にすると「籍少年」「閎少年」といった言い方になります。これは「孺(ジュ)」という字に「おさない」という意味があるからなのですが、漢和辞典なんかを開いてみると、さらに「ちのみご」「やわらぐ(やわらかい)」という意味も出ています。
 こうしてみると、この「孺」の字で称せられる籍や閎は、かなり年齢の低い子のようにも思われます。帝はまだぷにぷにのやあらかいからだの子と床を共にしていらしたのかッ!?
 また「孺」の別の意味に、「妻」というのもあります。こちらの意味を含めると、彼らが文字通り、帝の妃のような存在であったと取ることもできそうです。
 どちらの意味にしてもヨイですが、これは深読みのしすぎでしょうか。

重陽企画◎唐土佞幸伝説 其の一

 ハロウィンがなんじゃい! そろそろ旧重陽ですね。
 なんだか攘夷的な発言しましたが、ハロウィンも重陽も、もともとは外国のお祭りですよね。他国の文化をウマいこと取り入れるのは、日本人の長所でしょうか。
 
 このように、いろいろな文化や制度を外国から学んできた日本ですが、「男色」もその一つだと言われています。俗説には、弘法大師が唐から持って帰ってきたんだそうです。
 これらの説の信憑性はともかくとして、中国にも古くから「男色」があることは確かです。そこで今回からの数回は、その中国の歴史書から、かの国の王が愛した寵臣たちの伝説を取り上げたいと思います。江戸期の男色文献にもたびたび出てくる故事ばかりです。
 ちなみに、タイトルの「佞幸」というのは、「こびへつらって主君に気に入られる者」という意味ですが、多くの歴史書の寵臣について扱った章のタイトルに使われているので、深い意味はなく引用しました。


◎弥子瑕(びしか) ~『韓非子』説難第十二より~

 『昔、弥子瑕、衛君に寵有り。……』

 弥子瑕は衛の国の王(霊公)から寵愛を受けていた。
 衛国の法律では、君の許可なく君の車に乗ったものは「刖(げつ)」の刑(足斬り)に処せられることになっていた。
 弥子瑕の母が病にかかると、ある人が夜、こっそりと弥子に知らせた。
 弥子は「君の許しを得た」と偽って、君の車に乗って母の元に向かった。
 それを聞いた君は、弥子瑕を「賢い」と褒めて言った。
 「孝行なことだ。母のために足を斬られることを忘れるとは」

 またある日、弥子瑕は君と果樹園に行った。桃を食べると、とても旨いので、食べつくさずにその実を半分、君にさし上げた。
 君は言った。
 「私を愛しているのだな。旨いものを惜しまず、私に食わせてくれるとは」

 その後、弥子瑕の容色が衰えると寵愛がゆるみ、ふとしたことで君の咎を受けた。君は言った。
 「こやつはもともと悪いやつだった。いつだったか偽って我が車に乗り、また食いさしの桃を私に食わせた」

 弥子瑕の行いはそのときも初めと変わらなかったのに、しかも以前に褒められたことを取り上げて、後に罪とされたのは、君の愛憎が変化したからである。
 主君に愛されているときは自分の知恵は取り入れられ、親しみは増すが、主君に憎まれているときは、自分の知恵は受け入れられず、疎まれ罪を着せられる。
 したがって、貴人に意見や忠告をしようとする者は、主君の愛憎(心の状態)をよく察して、それから話をしなければならない。云々(後略)





 お気付きの方もいらっしゃるでしょうが、これはいわゆる「逆鱗」と言われるお話の前半部なんですね。「主君に接近し、用いられるには、主君の心をよく読まなければならない。意見を述べるものは、主君の逆鱗に触れぬようにしなければならない」という趣旨に説得力をもたせる事例として、韓非が引用したものと思われます。

 それはともかく、弥子瑕を愛していたときの霊公のノロケっぷりはすごいですね。弥子瑕が何をしても「賢い」「私への愛だ」とは……。
 それゆえその後の豹変には驚きです。一体何があったんだ!?

 そのあたりの事が、別の章に書かれていました。
 それによると、弥子瑕は当時、霊公の恩恵を受けて国中に羽振を利かせていたそうです。しかしあるとき、一人の道化が霊公に「あなたにお目にかかるのに、かまどの夢を見ました」と言いました。君主に目通りするものは、太陽の夢を見るというのが通例なのに、どういうことだと霊公が問うと、道化はこう答えました。
 「君にまみえる者が太陽の夢を見るのは、君が一国をくまなく眺め渡し、何人もその明をふさぐことができない存在だからです。しかし、かまどというのは、その前に一人でも座ると、後ろの人にはその火が見えません。今、君の御前に誰かが座り込んでいるのではありませんか?」
 かくして霊公は弥子瑕やその他の寵臣を退けた、ということです。

 美貌が衰えた(年のせい?)からと言って、難癖付けて捨てたなんて話よりは、弥子瑕に入れ込みすぎたのを諌められたからという話の方が、救いがあっていいんですが……。為政者に愛されるのも、いいことばかりじゃないみたいです。

「  の斟酌は最愛のおあまり」(『野傾旅葛籠』より) 後編

 「梅色夜話」では作品のオリジナリティーを尊重してご紹介しています。

 飛子の意気地、後半です。


 *前回まで*
 営業先でお上の取り締まりが行われると知った飛子・美世三郎の家来・杢平は、美世三郎を連れてあてもなく逃げ出した。道中、杢平は川原に住まう乞食のひとり、権七に銭をやって美世三郎を預け、置いてきた荷物を取りに戻ろうとするが、権七はその頼み方が気に入らないと拒否する。この心意気に感じた美世三郎がその場をとりなし、杢平は来た道を戻り、美世三郎と権七は小屋に残った。


◎「乞食の斟酌は最愛のおあまり」(『野傾旅葛籠』より) 後編

 杢平が去ると、権七は隣辺りの小屋を駆け回って、
 「もし外から人が来て、声高になることがあれば、みんな表に出て加勢してくれ。頼むぞ」
と、仲間を味方にした。小屋に帰ると、破れた菅笠を団扇代わりにして、美世三郎に取り付く蚊を追い払ってやるなど、そのほかにも優しい心遣いを見せた。
 自然と人の真は我が心に移って、美世三郎はこの権七をなんとなく可愛く思うようになった。
 「そなた、おれに何か言うことはないか」
 美世三郎がそう言うと、権七は暑い季節にわなわなと震えだし、「もったいない」とばかり申して、あとは何も言わずにうつむいてしまった。
 「なんて小気な男じゃ。こうするも縁と言うもの、今宵は夜通し打ち解けあって話しましょう、遠慮しないで」
 言いながら美世三郎が膝枕をすると、権七の心の中では衆道のことは外になって、昔世に在りし身の時を思い出し、心の塵を払った。しかし、十符の菅菰七符には(古歌引用)君の御寝姿を見て、どうにもたまらず抱きつこうとしたが、我と我が頭を振って歯を食いしばった。そのまま蚊を払って口の中で念仏しているのは、その心はありながら我と身を恥じている様子で、その心入れにいっそう不憫がます。美世三郎は起き上がり、二人の乞食を起こした。
 「所が変わって寝られないから、無心ながら、あそこに声のする蟋蟀(コオロギ)を取ってきてください。せめてそれを寝られぬ伽に」
 二人は快く承り、やがて外に出て声をしたって取りに行った。
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「  の斟酌は最愛のおあまり」(『野傾旅葛籠』より) 前編

 「梅色夜話」では作品のオリジナリティーを尊重してご紹介しています。

 さてみなさま、「飛子」という言葉をご存知でしょうか。平たく言えば、旅をしながら色を売る、いや、色を売りながら旅をする……まあ、そんな感じの売春を業とする少年のことです。
 今回は、その飛子の意気地がテーマのお話です。


◎「乞食の斟酌は最愛のおあまり」(『野傾旅葛籠』より) 前編

 ある夏のはじめ、宜山美世三郎という新部子(しんべこ:少年役者、色子)が、若衆の道を知るためにと、奈良の都で芝居を勤めた。それから豊田・今井・橘寺、近在の霊仏霊地の福僧を当てにし、あるいは近国の武士方や忍び慰みの所々をうかがって、ここに五日あそこに七日と、若衆の尻も落ち着けず勤めまわるのも、この道の修行と思えばこそである。
 ただでさえ旅は物憂いというのに、ましてや心知らぬ片田舎の客の気を取り、あかぎれの足を持たせかけられ、一度も楊枝を使ったことのないような口を寄せられるなど、なんとも悲しいことである。
 そうは言うものの、相手のない日はそんな不嗜みの人だろうと、客になるヤツさえいれば商売になり、憂の中にも勇がある。宵から全く客が絶えても、暇だといって引きこもって寝られるわけもなく、藁屋の中でしみじみと、更け行く鐘を嵐に伝え聞けばすでに九ツ(0時ごろ)、まだ宵とはいえ、つらさのために夜は秋よりも長く感じられる。この遠里で麦を突く歌を伽にするのはうれしいが、薄曇る月の習いで、やぶ蚊が多く群がるのは悲しい。

 そんな時、表の組戸を激しく叩く者がある。「誰だろう」と美世三郎の付き人である若者・はか原の杢平(もくへい)が戸を開けると、この藁屋の家主・甚吉がつつと入ってきた。
 「さあさあ、急な事が起きたよ。君たちより先に分の若衆(=色子・飛子)がこの辺りに徘徊していたんだが、衆道の意気から買い手同士が口論して、三・四人も傷をこうむったということで、”とにかく旅役者の類は少しの間もこの地に留め置かじ”と目代殿の御吟味があり、たった今、お歴々がお出になった。
 だから一刻も早くあの子を連れて立ち退きなさい。見つけられては当分言い訳は難しい。私たちは後に残って御吟味にお出になられるお方たちを出迎えなければならない。さあ、早く早く」
 家主がせり立てるので、驚くままに何の相談もなく、杢平は甲斐甲斐しく美世三郎を後ろにつれて出立した。

 しかしどこを目指して行くべきか、心当たりもない。野山を越えて五十町ばかり逃げたとき、小砂原のしょろしょろ川の向こうに、苫仮葺きの片庇の小屋の中で、松火を燃やしている者が二・三人いる。しわがれ声を出して、時ならぬ厄払いの稽古をしている、あれは乞食の住家だろうと嬉しく思い、川を越えてかの非人小屋を目指した。
 その中に、流木を拾い集め、卒塔婆の古くなったのをへし折り、石を据えてほうろくをかけ、白水のようなものを焼きたてて、それを酒と名付けて寄り集まっている者たちがいる。
 この余念のない有様は大名も及ばぬほどの楽しみである。杢平は「これは好都合」と、むしろ戸を片手でさし上げた。
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「難波の梅は花の兄分」(『野傾旅葛籠』より) 後編

 後半も大尽が二人の若衆に言葉責め。こんな嫌がらせって!


 *前回まで*
 「役者同士の恋愛禁止」 しかし、ある若女形(太夫)と新人俳優の若衆(梅之助)との交際が発覚。役者仲間たちは有名な大尽(金持ちの客)山寺と共謀し、彼らに制裁を与えるべく、嫌がらせを計画する。
 山寺は梅之助を座敷に呼び、役者仲間の一人・金八と念頃するように勧めた。


◎「難波の梅は花の兄分」(『野傾旅葛籠』より) 後編
 大尽の詰問に、梅之助は返事が出なかった。そこへ、すでに誰かが呼びにやっておいた梅之助の兄分(太夫)がやってきた。太夫は客の様子も知らずにづかづかと座敷にあがった。
 「ああ、山寺様でしたか。近頃は私どもの芝居を見限って、芝居の変わり目にもお見えになりません。西の芝居に御念頃の深い方がいらっしゃるから、それももっともとは思いますが、今度私たちがする芝居は、切り抜いてでもあなたにお見せしたい。あなた様のために作ったようなものだと、仲間同士、楽屋で噂しております」
 「天晴上手者め」
 粋な大尽を喜ばせる言い回しに、山寺もこの太夫の座振りを感心した。
 「私もそなたと同じ気持ちで、今日の趣向は切り抜いてでも君に見せたさに呼びにやったのだが、よくぞお出でくださった。
 さて、その変わったことというのは、この金八が梅之助どのに執心だと言ってかねがね私を頼むから、私が二人の太鼓を持って、今日金八に梅之助どのを会わせ、いつまでも変わらず内証に念頃させようという約束でね。盃もたった今無事にすんだのだが、金八というのは何とも粋な男ではないか」
 山寺の言葉に、太夫はいやな顔をして、
 「それはよからぬお取持ちです。私も覚えがありますが、初心なうちはずいぶんと勤めの邪魔になるものです。こればかりはご無用になさりませ」
と、額にしわを寄せて言う。
 「これは格別なご挨拶だ。こういう人には人一倍世話を焼くそなたが、無用にせよとは合点がいかない。
 私がこうして取り持つ上は、金八と念頃させたのが勤めの障りとなって、たとえば明日から梅之助を座敷に呼ぶ客がいなくなったなら、この私が引き受けて客になり、金八に快く会わせるまでだ。そんな所の覚悟をしないで、こんな世話が焼けるものか。
 そなたは新部子(色子)の時から今まで、勤めの外に執心なと言う人に、会ってやった事はないかい?
 もしも梅之助どのが"金八とはいや"と仰せられるのなら、そなたも若衆を立てる身として、ともに衆道の意気地を言って聞かせて、納得させるべきだというのに、これは日ごろの若衆ぶりには似合わぬことだ」
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「難波の梅は花の兄分」(『野傾旅葛籠』より) 前編

 集団にはルールがあるわけで、それを破った人にはキツイお仕置きが待っているものです。今回はちょっと悪趣味……かも。


◎「難波の梅は花の兄分」(『野傾旅葛籠』より) 前編
 道頓堀に、器量良く芸は素直で、気だては男らしい、女形にしては少し強気な太夫子がいた。同じ抱えにこの顔見世から初舞台を踏んだ、難波梅之助という陰子から巣立った若衆がいた。この太夫と若衆は愛し合い、内証に兄弟分の誓いまで交わしていた。
 ふたりは楽屋の中でも外でも、できる限り一緒にいて、はじめのうちは同僚の手前を少しははばかっているようだったので、ふたりの交際に気が付いた役者仲間も
 「さすがはその身も色のある身。そうでなくては」
と見許して取り沙汰しなかったが、後には誰忍ぶ風情もなく、毎日のように楽屋で戯れ、人目を気にしないような振る舞いである。
 「これは見苦しいな」
 芝居仲間が言い出すと、口うるさい囃子方が聞きつけて、
 「じゃあ、今からひとつ懲らしめてやろうか」
と言う。皆は「なるほど」と寄り集まって、どうしてやろうかと相談していると、詰頭の金八が分別ありげな顔をして言った。
 「いやいや、それならいい思案がある。俺に任せろ」
 「そう言うならおまえに任せるが、どうするんだ。後から割り付き(金の請求)がかかるような考えなら、こんな時分(=年末)だからやめにしてくれ。まあ、おまえの考えを聞くのは、まず一杯やってからだ」
 酒盛りを始めると、一杯が十杯になる。酔いが回れば途方もないことになると、お互いに口止めしあって、
 「まず銭のいらぬ思案かどうか聞いてから、やつに任せよう」
と言うと、金八は「これはもっとも」とうなずいた。
 「おまえが思いついたことを言って聞かせろ」
 皆は言葉をそろえて問いかかった。
 「わかった。俺が考えたのは、おまえたちも知っている山寺様という大尽(資産家・お金持ち)は、この道頓堀でも隠れなき遊び手だ。こんなことをお聞きになれば、特にお喜なされて、我物使って味に仕舞いをつけるお方さ。以前に白人(私娼)の"つね"が味噌臭いと言った、あの仕舞いをおまえたちは見なかったか?
 旦那はお慰みといって喜ばれ、俺たちは幇間持ち(たいこもち)になって気分が晴れる。見苦しい若衆同士の念頃を公にして、これも旦那に始末をつけてもらって、これほど無事な、良い思案もないだろう」
 金八が得意げに話すと、皆も声を合わせて、
 「それはいい。金八が一世一代の思案だろうよ」
 各人はこの思案に決めて、浜側の山寺様のいらっしゃる色宿に向かった。
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