ひさびさに、短編いってみます。出典は『新百物語』となっていますが、ホラーではないですよ。
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都の嵯峨清涼寺の釈迦は、赤栴檀(せんだん)の尊影であり、毘首羯麿(びしゅかつま:建築を司る天神)が作ったといわれている。三国伝来(インド→中国→日本と伝わること)していらっしゃり、いまこの世の衆生を化度(教え救うこと)なさっている。霊験は著しく、人々が足を運ぶことは、他を圧倒していた。
ここに、樋口の小路に、何がしの惣七郎という若者がいる。その隣の家には、甚之丞といって、並々でない少年がいたのだが、惣七郎はかれこれと言い語らって、人知れず兄弟の契りを結んだ。
今日もまた、人目を避けて二人きりで、嵯峨野の方を目指して行った。しかし、仏の御前には、人が立ち込めていて、ぶらぶらと歩き回ることもできないので、少し立ち止まって心静かに経を唱えた後は、本道は人目が多いからと、わざと傍らの細道をつたって、下嵯峨へと歩いて行った。
するとむこうから、無骨な大男が、長い刀に鉢巻をして、酔っているようで、いい加減な歌を歌い戯れながらやってきた。
男は甚之丞を見ると、
「なんと美しいお姿か。こんな細い道をお歩きになるとはお気の毒だ。さあ、こっちへ」
と抱き留め、ふところに手を入れるなど、狼藉な振る舞い(!)。
惣七郎も平気ではいられず、
「これは理不尽な方々だ。我々はすこし急用の事があって、下嵯峨へ参る者です。そこを退いてお通しください。」
というと、
「なにを、うるさい奴だ。その男をだまらせろ。」
と、二人の男が飛び掛り、左右から引っ張ると、また言った。
「先ほど、この少年を見たときから、胸はとどろき心はまよって、なんともしがたい。この少年はお前さんの弟分なのだろう?それなら、いますぐこっちにわたしな。逆らうならば…」
と、氷のような刀を抜いて、胸元に当てた。
惣七郎も甚之丞も、このような手籠め(力ずくで取り押さえるコトですよ。念為;)にあってしまった上は、仕方なく言をたれて、
「誠に私めの倅(=自分の若衆を謙遜していう語みたいです)に御心をおかけになり、有難くはございますが、そうはいっても、これをお渡しすれば、どうして一分が立つでしょうか。
たとえ骨をばらばらにくだかれ、身をこのまま刻まれたとしても、けして望み通りにはなりません。
ただ、どうか、どこでも茶屋へお連れして、杯を差し上げ、みなさまのお心を晴らさせていただきますから、お許しください。」
というと、しばらく何か考えているようだったが、
「実に都合のいいはからいだ。それならば」
と刀をおさめ、連れ立って町に行き、ある茶店に入った。
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お久しぶりです。パソコンがお釈迦になってしまったので、しばらくさみしい日々を過ごしていましたが、新入り(データ移行完了!)とともにこっそり復活させていただきます。
それにしても、自分にとって、パソコンやネットがこれほど不可欠なものだったとは気がつきませんでした;いなくなって初めて気がつくものなんですね。
というわけで、御小姓にとって最も大切なものとは?それを失った御小姓は?というお話はいかがですか?
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石田三成が近臣、小幡助六信世と云ふ者有り。上野国の住人小幡上野介信繁が三男なり。
立身を心がけ、十五歳の時、上州(上野の別称)より大阪へ登り、諸家の風俗を見聞す。
其の頃石田は、秀吉公の御寵臣にて、日本一の大名にも、立身せんとの沙汰(うわさ)あれば、三成に仕へ、勤功をはげまんとおもひ、石田が家に知音(ここでは「知人」という意味でしょう)をたのみ、奉公を願う。
この助六は、勝れたる美童なりける故、三成見て大ひに悦び、忽(たちま)ち召しかかへて寵愛尤も深かりける
助六は、もとより才智備はり、忠義を専らとする者故に、三成段々とりたて、領地二千石を与へ、近臣の総頭を申し付くる。
去程に、今度三成、大垣より関東へ出陣するにも、影のごとくに付き従ひ、忠戦したりけるが、三成敗北のとき、助六は敵大勢に隔てられ、三成を見失ふ。
是によって、数万の敵陣を切りぬけ、主人を尋ねけれども、其の在所知れざれば、石山辺へのがれ行く。猶三成を覚束なく思ひ、彼方此方を尋ねける。
其頃家康公は、江州大津の駅に御陣を居られ、今度謀反の張本人・石田三成、戦場を逐電し、其行方しれざれば、諸大将に仰せ付けられ、治部少輔(=三成)を捜されけるに、
石山辺の郷民の内、かの助六を見知りたる者有りて、大勢をかたらひ、助六がしのび居たる家に、夜中にわかに押し込み、難なく生け捕り、大津の御陣へ連れ行き、
「この者は石田殿の近臣なり。三成の行方お尋ねの為と存じ、搦め捕り候」
と申し上げる。
家康公聞こし召され、神妙のよし仰せ出され、黄金二十枚、彼の郷民共に下されける。
その後件の囚人を御前へ召して、三成が行方を御直に尋ね給ふ。
助六、庭上に跪(ひざまず)き、ちっとも臆したる気色なく、つつしんで申し上げるは、
「某は石田三成が家来、小幡助六と申す者なり。治部少輔が居所をよく存知候へども、年頃身を安楽に置きし事は、悉(ことごと)くみな主人三成が恩顧によるところなれば、今更其厚恩を忘れ、主人の在所を申し上げん事、勇士の本意にあらず。この上は、拷問を仰せ付けられ、その後首をはね給ふべし。」
と、憚るところなく申し切りて、二度お答へをも申さざりければ、家康公聞こし召され、
「忠義武勇を兼ね備えたる士なり。尤も精兵と謂ふべし。治部少輔が行方をしるならば、主人の先途を見届くべきものなれども、しらざる故に別離せしならん。
たとひ三成が在所を知りたりとも、この者に於いてはいふべからず。何ぞ拷問に及ばんや。凡そ大将たらん輩は、かかる忠臣は憐憫(れんびん:情けをかけること)して置くべき事なり。
早く彼がいましめの縄を解きて、その死刑をなだむべし。」
とのたまひ、忽ち赦免を蒙(こうむ)りぬ。
助六、御前を退出しけるが、それより近辺の寺院へ行き、住持の僧に対面して語りけるは、
「某、石田殿の家人小幡助六と申す者なり。敵に生け捕られ、既にちゅうせらる(殺される)べきところ、不慮に一命をたすけられ、此処まで来たり候ひぬ。
しかれども、いささか思ふ仔細あれば、ここにて腹を切べし。死骸をかくしてたまはれ。」
と云ふ。
住持驚き、しばらく抑留せんとひしめきけれども、力に及ばず忽ち自殺しける故、かの僧、大津へ赴き、右の次第(今は上ですね;)を言上しければ、家康公其皆を聞かせ給ひ、甚だおしませ給ひしとかや。
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冬休みスペシャルで文章が長いです;ここまでお読みくださった方、お疲れ様です。
助六くん(いや、"さん"かな?小姓というより近臣ですし)の三成殿を思う愛の深さ…、感心しますね。そしてその大事の主人を失った不安・焦り・悲しみ…。強がってはいても、その目の奥で震える心を、家康公は読み取ったに違いありません。
なんといっても、取り立てられる前から、この人にお仕えしよう!!と心に決めていた人と、目の前で引き裂かれてしまったのですからね。
「三成を覚束なく思ひ…」の、「覚束ない」という言葉には、「不安だ」という意味のほかに、「逢いたい」という意味もあります。そう思うと健気さ倍増vv
一度は捕らえられた助六くんですが、許されて生き延びることができました。にもかかわらず、すぐに自害してしまったのはなぜなんでしょうか。武士として、辱めをうけたから?それとも、魂となって愛しい主人に逢いにいくため?助六くんの思う仔細って、なんだったんでしょうね。
さて、これほど一途に思われていながら行方をくらましたままの殿・三成さんですが、彼も美少年好きだったとは、意外に初耳でした(私だけ!?)。美童を、「見て大いに悦び」、「たちまち召し抱えて寵愛」するなんて、あからさま過ぎるぞ!!
っと叱ってやりたいところですが、彼は歴史において、わが故郷をすこ~しだけ有名にしてくれたお方の一人なので、許しますv
ここから見えるあのお城にも、二人がやってきたのかしら…そしてねんごろ…(戦後の再建だけど;)と妄想する郷土偏愛者です。
前回は仲良しさんな御小姓どうしの話でしたが、今回は、前回にまして「仲良し」な関係のおふたりが登場!一見の価値アリです。
臼杵新助、筑前高祖(現・福岡県)へ押し寄り、攻めたたかふ事度々なり。
一日の内、七度の槍を合わせ、原田(高祖城主)打ち負けて筑後へ引き退き、高良山に楯籠(たてこ)もる。豊後勢(臼杵氏)高良山へ押しよせ、遠攻にするところに、臼杵鑑連(新助と同一人物?*)が小姓に、芳野八郎、才覚ある者なりしが、縁者有るに依りて、高良山の法印が許(もと)へ立ち入りて逗留し、
原田が寵愛の児小姓・染川十郎という者、原田が、青花という禿童を愛して、我が寵おとろえし事を、恨みける者有るを聞き立ち(聞き出し)、これと男色の因(ちな)み深くして、染川をすすめ、原田親種(**)をきらせける。
高良山に居ける原田勢は、或いは討たれ、或いは散々に逃げ落ちぬ。
高良山の城番には、田北刑部を籠めおかる。
芳野八郎今度の忠節を、宗麟(大友宗麟:義鎮とも。九州の大ボス。臼杵氏が代々仕える)感ぜられける。
染川も定めて御感に預かるべきとたのみおもひて、臼杵に従って豊後にぞ居たりける。
相伝の(代々仕える)主を殺せし者なれば、宗麟是を挙用し給はず。
是を悪しと思ふ者、一首の歌を書きて、十郎が宿の前にぞ立てたりける。
うるはしくみを染川につつめども心はやまのかせぎなりけり
(みを染川に=身を染革に、かせぎ=鹿の異称 …推測です;)
この十郎、程なく大病をうけて死にけり。
原田は勇将のほまれ有りしかども、禿寵愛によって、染川一人が恨みにて、不慮の災いおこれり。後人の亀鑑(かめのかがみ=手本)ならずや。
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この「御小姓列伝」の趣旨は、古い文献に著された御小姓の逸話・挿話を、単なるBL・美少年の出てくる話として、面白がろうというものなのですが、あまり歴史的事実をないがしろにするのもいかんと思いますので、ちょっと臼杵・原田両氏について調べてみました。(参考サイトさま→
http://www2.harimaya.com/sengoku/buke.html)
(*)「臼杵新介」という人は、ある系図によれば「=鎮続」で、鑑連は、鎮続の兄・鑑速とともに、現地軍総司令官を勤めた人らしいです。しかしこの名前や関係も、伝えられた系図によってまちまちだそうなので、いったいどれが誰なのか、よくわかりません。歴史ってムズカシイ。
(**)原田親種さんについては、「隆種のあとは四男の親種が継ぎ、惣領となり大友氏を仇敵として徹底好戦した。元亀三年(1572)、臼杵鎮氏と池田川原で戦いこれを討ち取った。ところが天正二年(1574)、立花道雪より了栄が池田川原の戦いの責任を追求されると、親種が父了栄に代わって詰腹を切った。」と書かれていました。え?十郎くんに殺されたんじゃないの?まあ、本文中にも「死んだ」とは書かれていないし、それじゃぁあまりにハズカシイので、「切腹」というコトにした、ということも考えられます。やっぱりムズカシイ;
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歴史好きの人には怒られそうですが、ともかくこの話はこの話で独立して考えましょう!
臼杵vs原田の戦いが続く中、臼杵さんの御小姓・芳野八郎くんが、すごい情報を仕入れてきました。
なんと、原田さんちの御小姓・染川十郎くんが、原田さんの寵愛が禿(かむろ)の青花くん(せいか、と読むのかな?)に移ったことを恨んでいるというのです。
そこで八郎くんは、傷心の十郎くんに近づき、優しい言葉をかけて……。うひゃ~、ふたりの年齢は分かりませんが、これって世にいう「受×受」ってやつっすか?
ちがう? 主君のためとはいえ、失恋中の敵方の美少年をだますちょっぴり悪なお兄様v(ここはあくまで百合っぽくvv) しかも、「振った男を殺せ」とまでご命令!それを実行する十郎くんもすごいなぁ。そこまで嫌われたのか、原田親種…。美少年の嫉妬は恐ろしい~。
そんなあくどい作戦を企てた八郎くんですが、敵を倒したことにはかわりないので、総大将の宗麟さまからほめられちゃいました。それを見た十郎くんも、臼杵の仲間に入ったことだし、宗麟さまにほめられるはずだと思っていたのですが、今まで仕えてきた主君を殺しちゃうキケンな子として、用いられませんでした。うーん、かわいそ;
そんな十郎くんを哀れんでなのか、誰かが歌を残しました。本に注がないのでワタクシの勝手な推測を述べます。
歌を要約すると、「どんなに美しく着飾った十郎くんも、心は山の鹿だ」ということでしょうか。歌で鹿といえば、恋をイメージさせる言葉です。牡鹿は鳴いて雌鹿を呼ぶんですよね。すると、「十郎くんは恋に飢えた子だ」とでも言いたいのでしょうか!?確かにそんな感じはしますが。
十郎くんは、ほどなく病死してしまったそうです。どこまでも哀れな子;
ハッピーエンドではありませんでしたが、今回の収穫は、御小姓どうしで衆道の契約をすることがあった、ということです!美少年カプも、なかなか耽美でいいじゃありません?
そして、今回の騒動の一因(?)・「禿童」の青花くん。名前からして、武家に仕える子じゃないですよねぇ。禿ってやっぱりお殿様が愛玩なさる×××なのかしら?
以前「本朝御小姓列伝 二」でご紹介した「時田鶴千世」くんのこと、覚えていらっしゃるでしょうか。今回はその彼について、別の文献がみつかりましたので、ご報告したいと思います!
『朝野雑載』巻の七によりますと、家康公が遠州高天神の城を攻めたとき、城主・栗田刑部は幸若舞を所望し、家康公に命じられた幸若與太夫は、「高舘」を舞った…。ここまでは、「常山紀談」と同じですね。
さて、舞が終わると、一人の武者が引出物をもって出てきました。彼は「赤根(あかね)の羽織」を着ていた、と書かれています。
その翌日、高天神の城は落城し、軍士はことごとく討死にしました。先の使いに出た赤根の羽織の士も、城外まで働きに出て、討死にしたといいます。
その後の首実検のとき、「生け捕りの者も見知らず、年の頃は十七、八ばかりにて、薄化粧してかね黒く(お歯黒のコトですね)、髪撫で付けにして、男女の差別更に見分けがたき首」がありました。
家康公の仰せにより、その首の目を開いてみると、黒眼はあきらかで、男の首ということになった。その首こそ、「栗田刑部が寵愛せし稚児小姓、時田仙千代といいし者なりとかや」
おや?時田くんの名前って、鶴千世じゃなかったの?うーん、どっちが正しいのか…。
ともかく、時田くん新情報。年は十七、八!赤い羽織が印象的です。
首実検のとき、生け捕りになった味方の武士にさえ、その顔が知られていなかった、時田くん。それって、栗田さまの秘蔵の御小姓ってコト?めったなことが無い限り、他の人には見せません!?さすが「最愛」の御小姓だけのことはありますね。
首が女性かと思われたのは、もともとの美しさに加えて、お化粧をしていたからなのですね!戦いの日にも、ナチュラルながらしっかりメイクで出勤する心意気!!きっと、朝早起きしてメイクしたんでしょうね。み、見習わなくては…;
化粧といえば、昔の公家や武家の男性は、ふつうにしていたみたいですね。となると、そういう高家の少年たちは、いつからお化粧に目覚めて、誰から習うのでしょうか?お父さんのお化粧道具を勝手に使ってみたり、お父さんに教えてもらったり…だったらちょっとイヤかも(笑)。要調査項目です。