今回、ちょっとハードな描写を含む可能性があるので、あらかじめご了承ください。いえ、エロではないですが、…「首」とか平気ですか?
では今回も『常山紀談』から。
-栗田刑部幸若が舞所望の事
付時田が首実検の事-
東照宮(=徳川家康)、高天神の城(*)をかこませたまひ、柵を付けて固く守らせらる。城中後詰(ごづめ:応援の軍)を乞へども勝頼(=武田勝頼)出ず。糧(ろう)つきけり。
栗田刑部、使いをもって、幸若が舞(**)を一曲所望し、
「これを今生の思ひ出にせん。」
と申しけるを、東照宮聞こし召し、
「やさしくもいひけるよ。」
とて幸若に高舘(たかだち:幸若舞の一種)を舞はせらる。
栗田が最愛の小姓・時田鶴千世(つるちよ)といひし者に、絹紙やうの物をもたせ出して幸若に贈りあたふ。
其の後落城の時、時田討ち死にしけるを、首取りたれども、女の首なるべしと、人々疑へり。
東照宮、聞こし召され、
「眼をひらき見よ。女ならば白眼(はくがん)なるべし。」
と仰せ有りければ、ひらいて見るに黒眼(こくがん)あり。また幸若忠四郎も、高舘を舞ひける時見しりたれば、時田が首に定まりけり。
(*)現・静岡県掛川市→
参照 (**)幸若舞(こうわかまい)→中世芸能の一。曲風は男性的で、武家の世界を素材とした物語を謡う。
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残念ながらワタクシ、あまり歴史に詳しくないので、この合戦がどういうもので、栗田という武将がどういう位置づけの人なのか、ということもよくわかりません;とにかく「武田VS徳川」で、「栗田さんは武田側」ということは、理解できますが。
家康さまから城攻めにあい、大ピンチに陥った栗田氏。「もはやこれまで」ということで、幸若舞が見たいと頼みました。家康さまは、「殊勝なことをいうものだ」と感心なさって、幸若の舞い手に「高舘」を舞わせました。
そしてそのお礼なのでしょうか、栗田氏"最愛"の小姓・鶴千世くんに、絹紙のようなものを持たせて、舞い手に与えたのでした。うーん、「最愛」というのもなかなか出ないイイ言葉ですねv しかしつまり、「愛」な御小姓は、ほかにもいらっしゃるってコト!?
その後、壮絶な戦いが起き、鶴千世くんは討たれて、敵に首を取られてしまいました。そして行われるのが、「首実検(くびじっけん)」です。
首実検とは、討ち取った敵の首が誰の首であるかを検証すること。誰が誰を討ち取ったのか、ということは、恩賞や出世に関わりますし、身分のある人の首は、敵に送り返したりします。
そんな首実検の時、討ち取った数多の首のなかに、ひときわ美しい首がひとつ…。皆、女の首だろうと思いました。しかし家康さまの仰せのとおり、目をひらいてみると「黒眼」だった…。
むかしわたしが見た文献には、討たれる際、女は恐怖で眼をそらせてしまうから白眼に、男はしっかり前を見たまま討たれるから、黒眼になる、というようなことが書いてあったように記憶しています。(男尊女卑だ!とかは思ってても言わないでね~;)
ともかく、女と見まごう美しさと男の子らしい勇猛さを兼ね備え、主君に愛された御小姓・時田鶴千世くん(「お鶴」とよばれたんでしょうか?)。その首だけになった姿というのにも、倒錯的な愛おしさが芽生えてしまいます!
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最近、めっきり寒くなってきました。もう冬ですね。
さて、「冬」といえば、「冬将軍」ですが、「将軍」といえば、当然「御小姓」です。ですよね!?
というわけで、今シリーズでは御小姓にまつわる逸話・伝説をご紹介。なかには、すでにみなさまご存知のものもあるかと思います。また、管理人の歴史観・史料の解釈の仕方について、嫌悪感を持たれる方もいらっしゃるかと思いますが、どうかご容赦ください。
「御小姓」といって、まずはじめに浮かぶのは、やはり森蘭丸でしょう。腐女子ならずとも、多くの人の脳内に、「蘭丸=美少年」という式が成り立っているように思われます。かくいうワタクシも、郷土出身の美少年として、贔屓にしております。
よって、今回は『常山紀談(じょうざんきだん)』より、森蘭丸のお話です。
-森蘭丸才敏の事-
森蘭丸は、三左衛門可成が子にて、信長寵愛厚し。十六歳にて、五万石の地をあたへらる。ある時、刀を持たせ置かれしに、刻鞘(きざみざや:鞘の刻み目)の数を数え居たり。
後に信長、かたへ(まわり)の人をあつめ、「刻鞘の数、いいあてなん者に、この刀をあたふべき」由、言はれければ、皆推し測りていひけるに、森は「さきに数えて覚えたり」とていはず。信長、その刀を森にあたえられけり。云々…
このエピソードを、老武者の備忘録『武者物語』で補うと、蘭丸は信長公が、雪隠(トイレ)にいかれた折に、お刀をもってお供し、待っている間に鞘の刻み目を数えていたそうです。しかも信長公は、それをご存知の上で、このゲームを催したということです。みんながはりきって答える中で、ひとり黙っている蘭丸。そこで、信長さまの言うことには、
「らんは、どうして申さぬのか。」
私は先に数えて知っていましたので、と蘭丸が言うと、信長さまは感心してお刀をくださった、ということだそうで。
結局、蘭丸がどんな答え方をしても、刀をあげるつもりだったんですね~。わざわざみんなの前で、蘭丸を持ち上げるところが、ニクい信長さま。蘭丸に対する信長さまの可愛がりっぷりが垣間見えるエピソードです。
ところで、上の話にも出てきましたが、信長さまというと、蘭丸のことを「蘭」とか「お蘭」とか呼んでいるイメージがありますよね。これについて、『南方熊楠全集』に興味深い一節を発見しました。
それは、熊楠氏が、男色研究家・岩田準一氏に送った手紙のなかのひとつに書かれていました。
「お――と称することは、小姓に限らず。小児また少年を愛して呼ぶときの詞らしく候。」と始まり、また『信長公記』から「森乱御使にて岐阜御土蔵に…」などという例をだして、「これら蘭丸を"乱"とつづめ呼びしなり。故に信長よりは"蘭"と呼び、側のものどもよりは"お蘭"と愛敬して呼びしことと察し候。」と書いています。
そして最後に、「すべて"お"の字を添うること、貴人の幼息や寵童を愛敬して下々より呼びしことと察し候。やがてはのろけきった主人も、その通りの称呼を使いしことと察し候。」とまとめています。
これらは、あくまで南方熊楠氏の考えでありますが、挙げられた例を見る限りでは、なるほどな、と思えます。「のろけきった」という表現が可笑しくていいですね~。
えーつまり、女性に限らず、少年の名に「お」を付けることはふつうにありえたこと、と思っていいんでしょうかね?ならば、みなさまお気に入りの御小姓・御若衆には、愛をこめて「お」をつけてよびましょうじゃないですか!
前回、最終回を迎えた『秋夜長物語』ですが、そこに登場した人物たちは、いったいどんな姿をしていたのでしょうか。
というわけで、梅若公や桂寿くんの御姿、ちょっとだけご紹介します。(いえ、出し惜しみというのではなく、ほんとに、チョッとしか、絵姿が見つからなかったのです;ご了承ください。)
この物語には、実は絵巻物が存在します(←求む書籍化!)。まずはその中から、梅若公と桂海律師の出会いのシーンを。(すべて画像クリックで、別枠拡大表示)

(画像大変見づらくて、申し訳ありません。しかも白黒…。そもそも元が不鮮明なのでご勘弁;)
垣根の間から、じーーーーッと若公を見つめる桂海律師。不審者として通報されても、文句言えないくらいアヤシイです。もはや、「垣間見」の域を越えて、これじゃ「覗き見」…。
さてその視線の先の梅若公は…
梅若公(ちょっと拡大ver.) 分かりにくいですが、右手で、袴の裾をすこしたくし上げ、左手に手折った桜の枝を持ち、その手で、柳にからんだ髪(頭)を押さえている…。というふうに見えます。若公の頭の後ろに何かもわっとした白いものと、葉っぱらしきものが見えるので、それが桜なのでしょう。
「みるふさの如くに、いういうとかかりたる髪のすそ、柳の糸に打纏れて引留めたるを、ほれほれと見かえりたる目つき顔ばせいふ計なき様…」という本文でしたが、ゆったりとした若公の美しさが伝わってきます。
次は、いきなり飛びますが、悲しくも入水なされた若公を引き上げ、泣き叫ぶ桂寿くんと桂海律師、というシーン。

「律師は顔を膝にかき乗せ、童は脚を懐の中に抱きて…」という本文そのままの描写です。
若公が着ているのは、紅梅の小袖。乱れた髪と、ぱったりと地に打ち捨てられた手が悲しみを誘います。しかし、そのお顔は、すこし微笑んでいるようにも見える…!?
一方、桂海律師は…、おおッ!若公の懐に手を入れるとはハレンチな!ではなくて、心臓の鼓動を確かめているのでしょう。とはいえ、若公が、水干ではなく小袖を召していたからこそできた描写ですねv
さて、管理人イチオシの桂寿くんv彼も、若公の膝に突っ伏して泣き悲しんでいます。若公よりも、少し小柄に描かれているところをみると、やはり若公(16,7)よりも、年下なんでしょうね~。非常に萌です。
さらに特筆すべきは桂寿くんの髪形!なんとこう↓なっています。

一つに束ねた髪を、さらにリボン状に二つの輪をつくって留めているようです。稚児は、髪の毛を非常に長く伸ばしていて、自身の背丈ほどになっているコトもあります。さすがに邪魔なときもあるんでしょうね。こういう結い方は、はじめて見たのですが、いかにも活発な桂寿くんらしくて、良いと思いますv
絵巻からは以上の2点のみですが、おまけに江戸時代前期に書かれた、「岩つつじ」(著・北村季吟)という古典男色和歌・物語選集(ようするに、BLな和歌や物語ばっかを集めて解説した本)の挿絵をご紹介。

この絶妙に江戸ナイズドされたキャラや背景…、味わい深いです。
桂海律師は、すでに準備万端。枕が一つ、というのもイヤラシイですな。この絵では、桂海さんは、ちょっと年配にみえますが、実際は三十路です。(どうも僧侶=おじーさんという潜入感があってイケマセンね。)
若公と桂寿くんは…

若公は稚児髷に、THE 貴族な御衣装です(笑)。でもちょこっと出た足や手が、可愛らしいです。
桂寿くんの髪形は、茶筅とかいう結い方ですね。それに裃(かみしも)、腰には刀。こちらはTHE 家来という感じです。子どもなのに、大人の格好させられているところとか、惜しげもなくみせるナマ足が、たまりませんvv
そして、ふたりで戸を指差して、どんな会話をしているのでしょうか(妄想)。あー、その細くてちっちゃい手をつなぎあったりしてたんだなぁと思うと、萌も倍増です。
今回の「梅色夜話」、いかがでしたでしょうか。少しでもお楽しみ・お役立ちになれば幸いです。
(エピローグ後編。ついに(やっと?)最終回です。)
◎第二三
新羅大明神は通夜の大衆をみな御前に召されて、仰せられた。(うわー仏教用語満載です;)
「衆徒の恨み申すところ、一応はその謂れ(理由)はあるように思われるのだが、これはみな一端しか見ない狭い考えである。そもそも神明仏陀(神・仏)が利生方便(衆生に恩恵を与えるする仏の巧みなてだて)を垂れる日、非を是として福を与えたのも、真実の本意ではない。是を非として罰を行うのも、慈悲の至りである。ただ順逆(正しい道に従うことと逆らうこと)の二縁によって無上菩提におもむかせるためである。
仏閣僧房の焼失は、もう一度造営するにあたって、財施(ざいせ:財物を施すという利益)があるからだ。経論聖教が焼けたのは、再びこれを書くのに伝写の結縁が得られるからだ。
有為の世の報身仏にどうして生滅(生きることと死ぬこと)の相がないだろうか。ただこの焼失の悲しみによって、桂海が発心し、いくらかの教化引導を致そうとしている事がうれしくて、歓喜の心を表したまでである。日吉山王もこれをお悦びになるためにいらっしゃったのだ。石山の観音の童男変化の得度(とくど)、誠にありがたい大慈大悲(広大な慈悲)かな。」
そうおっしゃって、明神は帳の内にお入りになったかと思えば、通夜の大衆の三十人、みな一度に夢から覚めて、同じように語った。
◎第二四
さては、梅若公が身をお投げになったのも、観音の変化であったのだ(!!)。寺門の焼失も済度(さいど:衆生をすくうこと)の方便(衆生を救うための手段)であったのだ(!!!)。
三十人の衆徒はみな信心を肝に銘じ、同じく発心してともに仏道を修めようと、かの桂海が、瞻西(せんさい)上人と名を変えて住んでいらっしゃる岩蔵の庵室に尋ねて行ってみると、三間の茅ぶき屋根は、半分ほどに雲がかかって、三秋の霜のために枯れた蓮の葉は薄く、一朝の風に落ちた果実は少なくない。
【“秋夜長物語 其の十四”の続きを読む】
(エピローグです。全然BLくないですが(爆)、オチはつけとかないとね。飛ばし読み可です。)
◎第二二
その後、園城寺の三摩耶戒壇を建てた張本人の衆徒三十人は、今はもはや立ち帰って寺に住む様子もなく、世の中がつまらなく感じて、みな離山しようとしたが、今一度寺門の焼け跡に帰り、内証甚深(内心のさとりの深いこと)の法施(仏に経を誦すこと)を奉り、発心修行の暇をも申し上げようと思って、新羅大明神の御前に通夜して、今を限りの法味を捧げた。
夜更けて、夢と現の境も分からないとき、東方の虚空から馬を馳せ、車を轟かす音がして、おびただしい大人(たいじん)、高客の来る勢いがある(貴人の来客ってそんなに特殊な勢いなんだ?)。
「不思議だ、誰だろう」と目もあわせられず、わずかに見ると、あるいは法務の大僧正かと見える高僧が、四方輿に乗って、御供の大衆はその前後を取り囲んでいる。あるいは衣冠正しい俗体の客は、甲冑を帯した髄兵を召し連れ、あるいは玉の簪(かんざし)を懸けた夫人は、軽軒(けいけん:軽快な作りの上等の車)に乗って、侍女数十人を左右に従えている。
後ろの方に立っている退紅(薄い桃色)の狩衣を着た仕丁(下人)に、
「これはどのようなお人がいらっしゃったのですか?」
と問うと、
「こちらこそ、東坂本(比叡山の東麓)に御座います、日吉の山王でいらっしゃいます。」
と答えた。
この高客たちはみな、輿車から下りて、幕の内へお入りになった。すると新羅大明神(三井寺の鎮守神)が、玉の冠を正しくし、威儀をかい繕って金帳の内からお出でになり、対面なさる。来客と主人との座が定まった後、敬盃の礼が行われた。舞曲の宴があって、新羅大明神は誠に興に和して歓喜の笑みを含みなさる。一晩中遊宴・歓娯して、夜が明ければ、山王がお帰りになるので、新羅大明神は寺門の外までお送り申し上げて、そのままお留まりになった。
◎第二三
新羅大明神が玉の橋を歩んで、社壇へお入りになろうとする時、通夜を行っていた大衆の一人が、明神の御前にひざまずき、涙を流しながら申し上げた。
「三摩耶戒壇建立の事は、過去における帝のお許しに任せて、我が寺の興隆を存じて興行いたしました事でございますので、一塵も衆徒の僻事(ひがごと:間違ったこと)とは思われません。それを山門が度々の勅裁をみだりに背いて、種々の魔障をなして当寺を焼き払ってしまいましたので、神明仏陀もさぞお心を悩ませていらっしゃることと存じます。しかし、当寺敵対の山門擁護の日吉山王に対して、宴を儲け、興を尽くして遊び戯れなさるのは、いかなる神慮でいらっしゃるのでしょうか。御心はかりがたく存じます。」
新羅大明神は、通夜の大衆をみな御前へ召されてお答えになった。
++++++++++++++++++++++++++++++++
うひゃあ、主人公出ず!!変わりに新キャラ(?)、神様たち登場!なにやら勝手に宴会始めちゃって、どうしてよいやら分かりません;妙に世俗的な宴だし。
しかし、一晩明けてついに、勇気ある僧が、ツッコ…いえ、質問申し上げました。「どうして、我らが新羅大明神さまが、敵である山門派の神、日吉山王と宴会をするんですか?」
彼の質問によると、自分達のしたことが悪いことだとは、全く思ってないみたいですね。うらやましい性格だ…。
そんな無邪気な質問に対する、明神さまのご回答は!?
次回、ついに最終回です!!
(長らくお待たせいたしました。前回は、梅若公の文に不審な心情の歌が書かれていた、というところまででした。それではつづきをどうぞ。)
◎第二十
桂海律師は、あわてて、
「これをご覧下さい。御歌が心許無いように思われますので、何事も道すがらお話ください。まずは、急いで行きましょう。」
と、坂本から桂寿を前に立てて、取る物も取り敢えず、石山へ急ぎ向かった。
大津を過ぎゆくころに、旅人と大勢すれ違った。彼らが
「ああ、哀しいことだ。この稚児は、どんな恨みがあって身をお投げになったのだろう。両親や師匠もどれほど嘆かれることか。」
と言うのを、あやしく思ってくわしく尋ねると、旅人は立ち止まって、
「ただいま、勢多(せた:大津の地名)の橋をわたっておりますところに、お年は十六,七ほどかと思われます稚児が、紅梅の小袖に水干の袴だけをお召しになっていましたが、西に向かって念仏を十返ほど唱えて、身をお投げになってしまわれたのです。あまりにかなしく思われましたので、私たちはすぐに、水に入ってお体を取り上げ申し上げようといたしましたが、とうとうお姿がお見えにならなかったので、力なくまかり過ぎてしまいました。」
と語って、涙をはらはらとこぼすのだった。
◎第二一
旅人の語りを聞けば、歳の程・衣装の様子に疑うところがない。律師も桂寿も、途方にくれ、足も手も力がぬけて倒れてしまうような心地がしたが、輿を早めて橋のたもとまで行ってみると、若公がいつも御身を離さずかけていらっしゃった金襴の細緒のお守りが、碧瑠璃の小念珠(数珠)をそえて、橋の柱に懸けられていた。
これを見て、律師も桂寿も、同じ川の流れに身を沈めようと悶え焦がれるのを、同宿の僧たちは大勢集まって、取り留めた。
せめて若公の亡きお顔だけでも一目拝見してから、どうにでもなろう、と思い、桂海がつなぎ捨ててある海士(あま)の小船に乗って、淵の底を臨めば、同宿の僧や中間たちは、みな裸になって、石の狭間、岸の陰を残る所なく探した。けれども、まったくお姿がお見えにならないので、天に仰ぎ、地に伏して、泣き叫ぶことは一通りではない。
遙に時は移り、供御(ぐご)の瀬というところ(勢多川の下流)まで、求めて下っていくと、せき止られた紅葉の葉の、紅の深い色かと見えて、岩の陰に流れかかっている物がある。それを舟をさし寄せて見てみれば、あるもむなしき顔ばせであって、長い髪は流れて藻に乱れかかり、岩を越す波に揺られている。そのお体を泣く泣く取り上げて、律師は御顔を膝に抱きかかえ、桂寿は御足を懐の中に抱いて、
「なんと情けないお姿か。我らにどうなれとお思いになって、このような事をなさったのか。梵天、帝釈、天神、地祇、ただ我らが命を召されて今一目生前のお姿をお見せ下さい。」
声も惜しまず泣き悲しんでも、落花は枝を辞して二度と咲くことはなく、残月は西に傾いてまた中空に帰ることはない。濡れて色濃き紅梅の衣のしおしおとした、雪のような胸のあたりは冷え果てている。乱れて残る黛(まゆずみ)の色、こぼれかかる緑の髪、美しい御顔は変わらないのに、一度笑めば百の媚を生じた眼(まなこ)はふさがり、色は変じてしまった。
律師も桂寿も、足許や枕元に平伏して命も絶え入るばかりに泣きしずみ、同宿・下法師たちにいたるまで、苔に伏しまろび、少しも泣き声がやむ時はなかった。
【“秋夜長物語 其の十二”の続きを読む】
(其の十よりつづく)
◎第十八
竜神に助けられた道俗男女は皆別れて、そこから各々帰っていった。 梅若公と桂寿も、我が故郷・花園へお行きになったのだが、あれほどの甍を並べて造られていた家々はみな、焼け野原となって、事情を問える人もいない。辺りにあった僧房で、事の次第をたずねると、
「左大臣(若公の父)の御殿は、公達(ご子息)の若公が比叡の山に奪われなさいましたのを、御里にお知らせにならないなどということはないだろうと、三井寺から攻められて、焼き払われてしまいました。」
と語った。
左大臣の御行方をたずね申し上げたいのだけれども、立ち寄るべき宿もない。それならば、三井寺へ行って、門主の御事をお尋ねしようと、たどるたどる、桂寿が若公の御手を引いて(←萌vv)、三井寺へ向かった。
三井寺の有様をご覧になると、仏閣・僧房のただ一棟も残らずすべて焼き払われて、閑庭の草の露はしたたり、空山の松は風に吟じていた。これが、かつて私が住んでいた処の有様か…と見れば、礎の石も焼け砕け、苔の緑も色枯れ、軒端の梅も枝枯れて、匂いを待つ風もない。
あらゆる物につき、変わり果ててしまった世の哀れ、ただ私のために起こったことであるから、さぞ神慮にも違え、人の噂にもなったことだろうと、浅ましく思われて、見るに目も当てられないのだが、長年住み慣れたところであるから、そのまま見捨てるのも名残惜しくて、その夜は、新羅大明神の御拝殿に湖水の月を眺めて泣き明かした。
◎第十九
門主はもしかすると石山に居られるのではと、若公は尋ねてお行きになったけれども、「ここにもいらっしゃらない」と言われたので、桂寿は、
「それなら、今夜は参詣の人のふりをして、本堂にいらっしゃって下さい。わたしは山門へ登りまして、律師の御房を尋ねてまいりましょう。」
と申しあげた。
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