(其の九よりつづく)
◎第十六
梅若公は、三井寺がそのように(壊滅状態に)なってしまったのもご存知なく、石の牢の中に押し込められて、明け暮れ泣き沈んでいらっしゃったところに、無量の天狗どもが集まって(←誘拐犯の正体!!)、四方山の物語をしていた。
その中で、ある小天狗が
「我らが面白いと思うことには、火事、辻風、小喧嘩、相撲の勝ち負けからの口論から騒ぎを起こしたり、白川の空印地(いんじ:遊びの一種)、山門南都の御輿振り(僧兵の強訴)、五山の僧の門徒立て…。これらこそ、興ある見物もできて、一風情あると思うのだが、昨日の三井寺の合戦は、世に類も無い見ものであったなぁ。」(うーん、説セリ;)
と言うと、またそばにいた天狗が
「よくぞ、この梅若公をさらい申し上げた。そうでなければ、このほどの戦が、どうして起ころうか。戦の最中、寺中の門主達が長絹の衣を蹴り垂れて、あちこちにお逃げになっていったのが、おかしくて、我なぞ興ある折句の歌を一首詠んでしまいましたよ。」
と語るので、座上の天狗が、「何と詠んだのだ。」と訊いた。
「うかりける恥三井寺のありさまや戒をつくりて音をのみぞ泣く
(かいをつくる→べそをかく、をかける)
と詠みました。」
と言うと、座中の天狗どもは、笑壷(えつぼ)に入って笑った。
若公はこれをお聞きになって、「ああ、あさましや。三井寺はおそらく私のせいで滅んでしまったのだ…」とお思いになるのだが、くわしく尋ねることのできる人もいないので、ただ桂寿とともに泣き侘びるしかなかった。
◎第十七
そうしたところに、淡路の国からの進物といって、八十有余の老翁を一人縛って棲の中に入れ、(天狗は)
「この翁は、雨雲のはずれから足を踏み外して落ちたところを捕らえてまいりました。何とも名を付けて、召使いください。虚空を駆けりますことは、誰にも劣りません。」
と申し上げた。
一両日あって、この翁は、若公と桂寿とが泣き悲しむのを見て、
「もしやお袖が濡れておりませんか」
と問うと、若公も桂寿もともに
「住み慣れた所を少しの間ながら別れさって、この天狗道に落ちてしまいました。父母の悲しみ、師匠の嘆き、思い遣られるたびに涙が落ちて隙がないので、それで袖も濡れているのでしょう。」
と答えた。
【“秋夜長物語 其の十”の続きを読む】
スポンサーサイト
(其の八よりつづく。今回ほとんどBL要素はないのですが、物語の転換点なのでぼちぼち見てやってください。)
◎第十五
山門派の僧達は寺門派の行動を聞いて、どうして蜂起しないなどということがあるだろうか。戒壇の事が原因で園城寺へ発向する(攻める)のは、すでに過去六度に及んでいた。もはや事態を公家に奏し(申し上げ)、武家に訴えるまでもない。時をかわさず押し寄せて焼き払え、と言って、末寺末社3703ヶ所へ触れ送ると、まず近国の勢が馳せ集まり、山上・坂本に充満した。
十月十五日は中の申の日であって、これに勝る吉日はないだろうと、十万余騎の勢を七手に分け、敵(寺門派)の前面・背面から打ち寄せた。
あるいは広く果てしない志賀・唐崎(琵琶湖の地名)の浜風に駒(こま)を鞭打つ衆徒もある。あるいは漫々とした煙波、湖水の朝凪に舟の棹をさす大衆もある。
山門派が思い思いに攻め入る、その中で桂海律師は、「いまこの事の原因はすべて我が身から起こった災いである。人より先に一戦戦って、名を後々の記録にまで残そう」と思ったので、優れた同宿・若党を五百人、みな神水を飲んで、五更(午前4時ごろ)の空もまだ明けないうちに、如意越から押し寄せた。
前面背面・城中の、総勢十万七千人が、同時に鬨の声(ときのこえ:開戦の合図・士気の鼓舞のために発する声)を挙げたので、大山も崩れ、湖水も傾いて地底へ落ちてしまうかと疑われる。
負傷したのもかまわず、死をも恐れず、敵を乗り越え乗り越え攻め入ると、攻め寄せる軍勢(山門方)には、本院に習禅・禅智・円宗院・杉生・西勝・金輪院・杉本・坂本・妙観院が、西塔に常喜・乗実・南岸・行泉・行往・常林房が、横川に善法・善往・般若院が集まり、三塔が共闘するのはいうまでもない。
ここが勝負の別れ際、と防ぎ戦う寺門方の大衆には、円満院の鬼駿河・唐院の七天狗・南の院の八金剛・千人切りの荒讃岐・金撮棒の悪太夫、八方破りの武蔵坊・三町つぶての円月房・提切り好みの覚増…、義を金石のごとく堅く守り、命を塵芥のごとく軽くして、打ち出で打ち出で防ぎ戦う。
鏃(やじり)は甲冑を通し、鉾先は煙塵を巻いて、三時ほど戦うと、山門方七千余騎が手負いになり、半死半生の状態になってしまったので、寺門方の城は、永久の時を経ても、落ちるとは思われなかった。
桂海はこれを見て大いに怒り、申し上げた。
「なんとふがいない人々の合戦の仕様!幾程もない堀一つを死人で埋めようとするのに、どうして攻め落とさないでいられようか。
我こそはと思う人々は、続いて桂海の手柄のほどを見よ!!」
あくまで荒言を吐いて、薬研堀の底の狭い中へ、かっぱと飛び降り、二丈あまりに思われる切岸の上へ、多くの楯を踏んで跳ね上がり、塗り外してある塀の柱に手をかけ、ゆらりと飛び越えて、敵三百余人の中へ乱れ入った。
【“秋夜長物語 其の九”の続きを読む】
(其の七よりつづく)
◎第十二
梅若公はもとより、三台九棘(さんだいきゅうきょく:三大臣と公卿)の家に生まれて、香車宝馬(美しく立派な車馬)の乗り物でなければ外出したこともなく、ほんの少しでも、いまだ泥土をお踏みになることがなかったので、旅のために足は弱り、心は疲れ果てて、これ以上は歩きなさることができないようだった。
お手を引いていた童・桂寿でさえ、くたびれ果ててしまったので、
「どんな天狗・化け物であっても、我らを取って比叡の山へ登らせておくれ!」
と言って、湖水の月に心を悩ませ、唐崎の松の陰に休んでいる所に、たいそう歳の寄った山伏が、四方輿に乗ってやってきた。輿をふたりの前に停めて、
「これは、いずこへ行かれるのですか」
と問うと、桂寿はありのままに答えた。
山伏は輿から下りて、
「私こそお尋ねでいらっしゃる房の隣へ登るものでございます。あまりに御いたわしいご様子のようですから、私は徒歩(かち)で、歩いていきましょう。この輿にお乗りください。」
そう言って、若公と桂寿を担ぎ乗せた。
力者(輿をかく人)十二人、鳥が飛ぶように進み、広々とした湖水をしのぎ、暗い雲霧を分けて、わずかの間に大峯の釈迦嶽(大和国にある霊地)へ着いてしまった。
しかしここに来て、ふたりは磐石(ばんじゃく:大きな岩)を積み重ねた石の牢屋の中に押し込められて置き去りにされてしまった。
夜と昼の境も分からず、月日の光も見えない。苔の雫、松の風、涙の乾く隙もない。道俗男女多くの人が捕らえられていると思われて、ぼんやりと薄暗い室に、ただ泣き声だけが聞こえるのだった。
【“秋夜長物語 其の八”の続きを読む】
(其の六よりつづく)
◎第十一
桂海律師は、まことに夢とも現とも分別のつかない梅若公の面影を身に添え、触れていた袖の移り香も、自分の物でありながら若公の形見(昨夜の思い出の品)にして、自分の山へと帰ったのだが、心はしおれ、世の人々が何か声をかけるのに、言い交わす返事もできない。
ただ、自分で自分が泣いているとすら感じられない涙が、人目をひくので、「ちょっと病にかかったようだ」とみなに告げ知らせて、それからは誰にも会わずに、伏し沈んで日を送った。
桂寿はこの由を伝え聞いて、梅若公に語り申し上げると、若公もまことに気がかりで気の毒なことだと心配して、ご様子はいつにもまして打ち沈んでいらっしゃるようだった。
今もうすぐに、律師からの音信(おとずれ:便り)もあるだろうと、しばらくは心に秘めてお待ちになっていたのだが、あまりに日数も過ぎたので、桂寿を呼び寄せて、
「ああ…、在りし夜の夢路も実感が少ないというのに、気を起こさせる文もなくて時が過ぎてしまったのを、誰のせいのつらさにしましょうか。このままでは、もうすぐにでも遠ざかって終わってしまいます。
あの方が風の心地(風邪気味)でいらっしゃるとかいうのを聞くと、露の命もどうなってしまうでしょうか。もしはかなく(お亡くなりに)なってしまったら、亡き跡を尋ねてもその甲斐はありません。
どんな山奥であっても、あの方の許へ尋ねて行きたいとは思うのですが、申し置きもしないでこのまま院を出れば、門主の御心にもさぞかしそむく事になるだろうと思われて、それも叶いません。
行方を知らない徒人(あだびと:恋人OR浮気人)がただ言い捨てていった言の葉を実(まこと)にして、私に心を付けた(気に入る)のも、いったい誰がしたことなのですか。
今のうちに私を導いて、どんな山やどこの浦であっても尋ねてお行き。」
と、御恨みをおっしゃり、涙をはらはらとおこぼしになった。
やはりまだ、幼けなく揺らぎやすい御心であって、人にこの上もなく思い焦がれてしまったものは、何ともしようのないのが世の習いだから、ほんとうにこれも当然のことだなぁ、と桂寿は悟った。
「その人のいらっしゃる所は、詳しく承っておりますから、お供申し上げます。しかしそうなれば、御所(若公の父の大臣)の御心もすぐれませんので、後で何なりともお申し上げなさりませ。」
梅若公と桂寿とただ二人、行くべき方も知らず出奔してしまった。
++++++++++++++++++++++++++++++++
あれ、また短い!?話の区切りの都合上、こうなってしまったので、お許しください;
「一夜を共にした後に連絡が来なくなった→カレにとっては遊びだったのかも!?」
なんてコトが、よく、ものの本には書かれてありますけど、その大切なアフターケアを怠るとは、ばか者ぉ!若公の悲しみ(と怒り)を見よ!相変わらず浮かれすぎなんじゃい!!そして沈みすぎ。
その心の病の種、今回心中を激白してくれた梅若公にも注目しましょう。この子、いままではどこか神秘的で、つかみどころのないように思えましたが、今回の言葉を聞いて、やっぱり普通の子(?)なんだなーとちょっと安心しましたv 桂寿くん曰く「いとけなきあだし心」。
はじめは「寺を抜け出すなんて…やっぱり無理」て言ってたのに、しゃべってるうちにテンションが上がったんでしょうか(俗人と一緒にして、失礼な!)、「今のうちに連れていって!」とは驚きの発言です。ほんとに、心の底から桂海律師に惚れちまったんだねぇ。ああ、そばに行って、「大丈夫だよ」って言ってあげたい。
桂寿くんも、若公の初恋成就のために、一肌も二肌も脱ぐ気漫々のようです。頼んだよ。
さあ、とうとう寺を抜け出した、ふたりの道行のさきに待つものとは!?無事に愛しい律師に逢えるのか!? まずはこれにて。
とりあえず、其の五までお読みになってから、ご覧下さい。まあ、ちょっとした心の準備ってヤツで…;でも、あんまり期待してはダメよ。
◎第九
桂海律師は、梅若公からの伝言を聞くや、心浮かれ魂乱れて、我が身がどこにあるのかも、分からない有様だった。
更け行く鐘を突きつき、つくづくと、月が南に廻るまで、待ちかねていたところに、唐垣(白壁のへい)の戸を誰かが開ける音がしたので、書院の杉障子から遥かに外を眺めると、例の童・桂寿が先に立って、その手には、魚脳の燈炉(魚の骨で作った灯篭)に蛍を入れて灯したのを持っていた。
その形は青螢(せいけい)として朧げであって、梅若公は、金紗の水干を召して、なよやかにうちしおれた(精神的に弱っている)様子で、誰か見ている人がいては、と篝の下で立ち止まってためらっていらっしゃった。そこに乱れかかる青柳が、ますます言いようの無いほどに見えたので、律師はいつのまにかすでに惚れ惚れとなって、あるもあられぬさまであった。
まず、桂寿が先に内に入り、蛍の灯篭を軒の御簾台の端にかけ、書院の戸を"ほとほと"とたたき、「ここにおいでになりました」と知らせると、律師はどのように答えてよいかもわからずに、ただ少しそばに身を寄せるようにして、自分がそこにいるということを知らせた。
桂寿は庭に戻り、「お早く」と申すと、若公は先に立って妻戸から中にお入りになった。
あれほどに遠いところにあった袖の移り香も、身に触れるばかりに寄り添って、傾けてしまえば、たおやかな秋の蝉の羽の初元結、ゆるやかに動く蛾眉の黛(まゆずみ)の匂い(ぼかし)、花にもねたまれ、月にもそねまれるべき百(もも)の貌ばせ、千々の媚。絵に描くとも筆は及びがたく、語るに言うとも言葉はない。
涙とともに堅く結ばれた心の下紐は打ち解けて、小夜の枕を交わし………
【“秋夜長物語 其の六”の続きを読む】
(其の四よりつづく)
◎第八
「御所のそばに、知り合いの衆徒の坊がおりますから、そこにしばらく滞在なさって、御簾のひまを御心に懸けられてはどうですか。」
と、桂寿がしきりに誘うので、桂海律師は思う方に心惹かれて、また三井寺に向かった。
桂寿がある坊の学問所を借りて、しばしの宿とすると、その僧房の主は急ぎの用意をして、丁重にもてなした。毎日、稚児たちを大勢呼び出しては、管弦をしたり、褒貶の歌合(ほうへんのうたあわせ:その場で各人の歌を評する歌合)などをして、日を過ごした(なんというVIP待遇!)。
律師は「所願のことがあって、新羅大明神(三井寺の守護神)に七日参りをする」などと言って、夜になれば院家(梅若公の住む聖護院)のそばに紛れこんで、築山の松の木陰、前栽(植え込み)の草の露の底に隠れていると、梅若公もすでに心得ていらっしゃる様子で、「人目の無い時があれば…」と隙を求めていらっしゃるようだった。
しかし、その願いは叶わず、良い機会がなくて外に出ることが出来ないまま、気をもんでいらっしゃるのを見るのはかえっていたわしく、
「ああもう、どうなってもいい。ただ遠くから若公のお姿を見るだけを、我が身の運命と思って、若公のお情けを命にして生きていこう。」
そう思って、朝夕若公の許へ行っては帰り、帰っては行き、日数も十余日になってしまった。
【“秋夜長物語 其の五”の続きを読む】
(其の三よりつづく)
◎第七
桂海律師はこのお返事を見て、心はますます浮かれ、さらに「帰らなければならない」という気持ちも起きない(ということは、やはりいい返事だったんだ!)。
互いに会わないままで別れるのも、我慢できないように思われたので、しばらくは近くの宿に留まって、遠くにいながらも、せめて梅若公のいらっしゃる方向の木の枝だけでも見て暮らしたい、と思うのだが、それもさすがに節度のない行いであるので、「いずれまた、参りますので」と、桂寿に暇を求めて山に帰った。
しかし一足歩んでは振り返り、二足歩んではまた戻る…、そんなことをしていたので、春の日は長いといっても、程近い坂本の僧房までもたどり着けず、日が暮れてしまい、その日は戸津の辺りにあった埴生の小屋に泊まった。夜もすがら梅若公のことを思い明かし、朝になって山に登ろうと、庭まで出たのだが、まるで千引きの縄(重いものを引く縄)を腰につけているかのように、自分の意志ではない心に引き留められて、戸津から引き返して大津の方へと、ぼんやり心の惹かれるままに向かった。
雨がしめやかに降っていたので、蓑笠を羽織り、旅の衣装に身をやつして行くところに、唐笠をさしかけた騎馬の旅人が一騎、道で行き逢った。「誰であろう」と見遣ってみると、なんと桂寿であった。
桂寿は律師を見て、
「あれ、不思議。申さなくてはならない事があって、知らない山まで尋ねて行こうとしていたのに、嬉しいことにこんな所で出会うなんて。」
と言って、馬から飛び降りて律師の手を取り、側にあった辻堂に立ち寄った。
【“秋夜長物語 其の四”の続きを読む】
当ブログは誕生から半年が経ちまして、管理人自身、「よーやったなぁ」と思っている次第です。これもご足労いただけるみなさまの暖かいお気持ちの賜物です。ありがとうございます。
これからも、どうぞご贔屓に!
++++++++++++++++++++++++++++++++
半年記念で管理人が言い訳中です。聞いてやろうか、という方は
コチラ。
拍手お礼挿絵、変更しました(→)。全2種。ちょっと不鮮明なのが申し訳ないです;
(其の二よりつづく)
◎第五
桂海律師は、夢と現の美しい稚児の面影に、起きもせず寝もしないで夜を明かし日を暮らしていたが、聖護院(梅若公が住んでいる所です)の近くに、昔知り合った人がいたのを探し出して、あるときは詩歌の会にことづけ、あるときは酒の宴に興じた様子で、その家で一夜二夜を明かすことが度々になった。
ある日、その家の主人が、
「あの聖護院の梅若公という御方に付き従い申し上げている桂寿という子は、万情の色が深くて、上にも下にも賞翫されていることは間違いないよ」
と語ったので、律師は
「その子を呼び寄せて話をすることは出来るだろうか」
と訊いてみた。主人は「安いことだ」と言って(律師の下心バレてる!?)、早速桂寿を招き寄せた。
律師は桂寿と茶を飲み、酒をなみなみついで呑ませ、遊び興じるついでに、金の打枝(金で作った造花)の橘に薫物(たきもの:お香)を入れたもの、さらに色々の薄絹の小袖を十重(十枚)送ってやると、桂寿も律師の心ざしの深いのを見て取り、もはや心を隔てる様子はなかった。
こうして桂寿の心を取った律師は、ようやく自分の胸の内を語った。 「前世の宿縁なのでしょうか、私はかの梅若公の御姿を拝見してからというもの、万心は乱れ、観念座禅の行学にもまったく意欲がわきません。寝ても覚めても、ただ梅若公の御事ばかりを考えておりますので、妄執の月は晴れがたく、心地の花は開くことがありません。
ですから、何も言わずにただ人助けだとお思いになって、御所中のお暇をお尋ねなさって、花の木陰の御戯れをも、今一目拝見させていただけたなら、それを憂き世の思い出にして罷り帰りましょう。
ただ年頃日頃も知らない身でこのような事を打ち明けるのはどうかとはばかりましたが、心中に積って言葉に出せない思いが尽きないのは、冥顕仏陀の感応にもれ、我が身の行く末も浅ましくありますので、このようにお頼み申すのです。」
律師が泣く泣く語るので、桂寿はあわれに思った。
「それほどまでに御心ざしが深くていらっしゃるならば、一筆御文をたまわりください。梅若公に申し上げてお見せしましょう。さあ、なんの遠慮もなさらないで。」
桂寿がそういうので律師はうれしく思い、すぐに色の濃い紙を取り出したが、思う心を尽くす言の葉は、どんなに紙を黒く染めつくそうとも、書き尽すことはできそうもないので、ただ歌ばかりになって、
知らせばやほの見し花の面影に立ち添う雲の迷う心を
(花の陰にほのかに見た花のように美しいあなたの面影を慕い、花に添う雲のように思い迷う気持ちを知らせたいのです)
【“秋夜長物語 其の三”の続きを読む】
(其の一よりつづく)
◎第三
桂海律師は、都から石山まで向かう途中、三井寺の前を通った。その辺りで、降るとも知らない春雨が顔にホロホロとかかるので、しばらく雨宿りしようと思い、金堂の方へと向かうと、聖護院の御房の庭に、老木の花の色の格別な梢が、垣を越えて雲を成していた。
「遥かに人家を見て花あれば則ち入る」という詩の心に惹かれて門のそばに立ち寄ってみると、年の頃は十六ばかり、水魚紗(すいぎょしゃ:水・魚の縫取りのある薄衣)の水干に薄紅の袙(あこめ)を重ねて、腰の周りは細やかに裾口は長く、そんな雅やかな稚児が見ている人がいるとも知らないのだろうか、御簾の内から庭に出て、雪重げに咲いている下枝の花を一房手に折って、
降る雨に濡るとも折らん山桜雲の返しの風もこそ吹け
(雨雲を吹き返す風も吹いて、きっと桜は散ってしまうでしょう。降る雨に濡れても今のうちに枝を折って花を助けておきましょう)
そう口ずさんで花の雫に濡れている様子は、これも花かと迷うくらいで、この子を誘う風でもあるだろうかと静心(冷静さ)もなく、花をおおうほどの袖でもあればいいが、そしてそれを貸してあげたいという気持ちさえしていた所へ、心無い風が扉をキリキリと吹き鳴らしてしまった。
稚児は、見ている人がいるのかと怪しげに扉の方を見やった。花を手に持ちながら、蹴鞠場に植えた木の辺りをめぐって静かに歩き出すと、房を成した海松(みる:海草の一種)のように、優々とした伸びた黒髪の裾を、柳の糸にまとわりつかれて引き止められてしまった。
それをうっとりと見返った目つき・貌ばせはいうまでもなく、自分を迷わせている夢に少しも違わないので、今の現実に、見た夜の夢は忘れ、日は暮れても行くべき道すら思い出せない。その夜は金堂の縁に伏して、夜もすがら物思いにふけって沈みこんでいた。
是や夢ありしや現わきかねていづれに迷う心なるらん
(どちらが夢で、どちらが現実か。分別しかねて、以前の夢と今の現実と自分の心はどちらに迷っているのだろうか)
【“秋夜長物語(あきのよのながものがたり) 其の二”の続きを読む】