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梅色夜話

◎わが国の古典や文化、歴史にひそむBLを腐女子目線で語ります◎(*同人・やおい・同性愛的表現有り!!)

秋夜長物語(あきのよのながものがたり) 其の一

 「秋の日は釣瓶落し」と言いますが、本当に日の暮れるのが早くなってまいりました。そんな秋の長い夜は、とかく時間を持て余すもの。みなさま、耳をお貸しください。徒然に秋の夜の長物語を一つ、お話申しあげましょう。


◎序

 今となっては昔のことだが、世に西山の贍西上人(せんさいしょうにん)といって、道学兼備したる人は、もとは比叡山東塔の衆徒・勘学院宰相の律師(りっし)桂海という人であった。
 桂海律師は、内典(仏教の典籍)・外典(儒教等の経典)に明るく、あるときは忍辱の衣(袈裟)の袖に摂衆の慈悲を包み、あるときは催伏(さいふく:屈服させること)の剣の刃に、猛気の勇鋭を振るう。誠に、真俗の頼み所、文武の達人であった。

 律師が三十路になった頃、俄かに自身の仏門にありながら、明け暮れただ名誉と利益のみを求めて、出離生死(解脱)の営みを怠っていたことを、浅ましく思い始め、やがては深い山奥に、しばしの隠れ家を結んで過ごそう、と思うのだが、旧縁のつなぐ所は離れがたく、いたずらに月日を過ごしていた。


◎第一

 これほどに思っていることが叶わないのは、悪魔が私を妨げているのだろうか。それならば、仏菩薩の擁護を頼んで、この願を成就させよう。そう思った律師は石山寺に詣で、七日の間、五体を地に投げ、一心に誠を致して、道心堅固ならんことを祈った。
 そうして七日後の満願の夜、礼盤(らいばん)を枕に少しの間まどろんでいると、夢を見た。
 
 仏殿の錦の帳の内から、容顔美麗で言葉に言い尽くせないくらい貴やかな(上品な)稚児が姿を現し、散り乱れた花の木陰に立ち安らいでいるので、青葉がちに縫ってある水干が、遠山桜に花が二度咲いたのかと疑われた。そのうちに稚児は、雪のごとく降りかかる花びらを袖に包みながら、何処へ行くとも分からぬまま、暮れ行く景色の中に解け消えて見えなくなった。
 
 そこまで見て、夢は覚めてしまった。 【“秋夜長物語(あきのよのながものがたり) 其の一”の続きを読む】
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SHUDO!本朝寺院対決!!

 お久しぶりです;
 今回は少し趣向を変えて、平安仏教について。果たして思惑どおりにいくかどうか!?


 第1回戦!空海VS最澄!!
 
 日本男色の開祖・空海!
 日本真言宗の祖にして、弘法大師の異名を持つ空海。唐での修行時代に、文殊菩薩と契り、日本男色の開祖の名をほしいままにする。
 後々までも「高野六十那智八十」(*1)と言わしめる、本朝BL界最強の王者である!

 対するは、日本天台宗の祖・最澄!
 初めて比叡山に登山した際、初めに稚児に会い、次に山王(山の地霊)に出会ったという伝説を残す男。「一稚児二山王」(*2)は伊達じゃない!


 両者、一歩も譲らず膠着状態!やや那智が優勢かと見えたその時!!
 
 なんと、天台宗に内部抗争が勃発!
 密教化の基盤(台密)を整備した、山門派の円仁。対する寺門派の円珍は、台密の更なる優勢を主張して園城寺(三井寺)に移った。

 「コノヤロー!俺たちの稚児に手ェだしやがって!」
 「てめえらこそ、うちの僧をたぶらかしただろー!」

 両者の対立は深まる一方。いま、新たなる戦いの火蓋が切って落とされた…!!

 (*1)高野山では60歳、那智では80歳になっても、稚児を務めるものがいるという意味の慣用句。
 (*2)上記の故事にちなむ慣用句。比叡山で稚児を大切に扱う習慣を評する時などに使う。

 
 はい。あー、これは、各方面にお詫びしなくてはならないかもしれませんね;誠に申し訳ないです、ごめんなさい。これらの内容は、伝え聞いた情報によって構成されていますので、あまり鵜呑みにしないで下さいね。ギャグですよ、ギャグ。立木○彦氏のナレーションを想像して読んでいただくと、より楽しんでいただけるかと思います。

 と、いうわけで、次回からまた長期でやります。
 扱うのは、稚児物語の魁的作品、「秋夜長物語(あきのよのながものがたり)」! 「山門派VS寺門派 稚児争奪戦!」の第一回戦ともいえる(!?)悲恋物語です。お楽しみに~。

男色大鑑 其の六

 やりますよ~!

 編笠は重ねての恨み 巻三の(一)
 白鷺の清八(髪結い師)×長谷川蘭丸(14、稚児若衆)←井関貞助(寺の居候)・その他坊主多数


 近江の築摩の祭りでは、所の習わしとして、その村の女で、離縁された者や夫に死に別れた者、また密通の現れた者などが、関係した男の数だけ頭に鍋をかぶって、神輿の行列にお供するという。(結構キツいお祭りですね;今もあるんですか?)

 そんな女たちの行列を見送って、野道を帰ってくる一行がある。皆しきりに汗の出るのを嫌がって、「都の富士」という今流行の大編笠をかぶっている。彼らは叡山の稚児若衆の一行で、その中でもこれこそ恋の根本と思われるのは、根本中堂の阿闍梨(あじゃり)の夜の友、蘭丸という者であった。たいへん美しい若衆であったので、叡山の山中で、彼に思いをかけない者はいなかった。

 蘭丸と同じ寺に居候している、井関貞助という男も、稚児たちと一緒に帰ってきたが、その道中で、蘭丸の笠の上に自分の笠を脱いで重ねた。するとそのなよやかな風情がおかしげになった。貞助は後から指をさして、
 「女のすることを、男も念者の数だけ笠を被らせてやった。」
と大声でさけんで笑った。蘭丸は立ち止まって、
 「私に念者が何人もいるというのですか。ここは是非わけを聞かせてもらいたい。」
 「人からとやかく言われるまでもないだろう。そのさもしい御心に尋ねてみなさるがよい。」
蘭丸は微笑んで、
 「私が師の坊の弄びになっているのは、本当の情の道ではありません。明け暮れ京から通って来る人こそ、私のたった一人の念者です。今もその人のことが忘れられないのに…」
そう言って涙に沈む様子は、すこし気後れしたように思えたが、穏やかに取り扱って、皆も外の話しに紛らわしてなんのこともなく済んでしまった。

 蘭丸は、加賀の長谷川隼人という侍の末子であった。男子ばかり12人もあって、家は繁盛していたが、一度不幸がおこるとそれが続くもの。ある年の春から次々に、その年の霜を見るまでに、兄弟10人が帰らぬ人となった。母も悲しみに沈んだあげく、この世を去り、父は、残った金太夫という息子に家を継がせ、12歳の蘭丸を叡山に登らせ、自らも出家した。その時、「墨染めの衣を着た姿を一目見せてくれ」と言ったので(花嫁の父親か;)、去年も出家したいと申し出たのだが、「15になるまでは」ととめられて、蘭丸にとっては不本意なことであった。
 貞助と果し合いをするのは、親の心ざしを無にする不孝の第一であるが、今日の辱めを晴らしたいという思いを抑えることは出来なかった。

 人々が寝静まった頃、この年月送られてきた、京の念者からの恋文を集めて、なつかしく見返していると、みな同じ筆跡ではなく、文章もひとつひとつ変わっている。考えてみると、自分では字を書くことができないので、その気持ちを人に話して書いてもらったのだろう。そのたびにさぞ気を揉んだことだろう、と思うと、いっそう愛しさが増さる。自分が死んでしまったら、その跡の嘆きも恨みも並大抵ではないはずだ。夜が明けたら都に行って、愛しい人にもう一度この姿を見せ、かりそめの添い伏しでもしよう。詳しく事情は語らず、それとなしに浮世の名残を惜しもう。そう思って人知れず涙を流すのだった。 【“男色大鑑 其の六”の続きを読む】

心友記

 久々の王道衆道物語、いきます。

 景正(出入り者、24)×重光(奥州長者の子、14)

 
 昔、奥州に忠重卿(源忠重か)という、世に並びない長者がいた。しかし彼は、傍若無人にして情の理非を解せず、悪を好んで善をそねむ、言いようも無い悪人であった。
 彼のただ一人の子息に、重光(しげみつ)どのがいる。この子は親に引き換えて、幼い頃より善きことを喜び、悪事を悲しみ、慈悲深く、今年14歳になられるのだが、その容姿は例えることも出来ない美人であった。

 出入りの使用人に、景正(かげまさ)という者がいた。彼は、重光どのの容姿に迷い、殊の外に心を乱していたが、賤しい身分であるからと、主君(忠重卿)を畏れ、また重光どのに直接会って伝えようとすれども、口に出せないでいた。景正の眼前には悲しみが満ち、ただ人知れず思い沈むばかりであった。

 そうするうちに、重光どのは、このことをお聞きになったのだろうか、すぐに景正と衆道の契りを結び、「天にあらば比翼の鳥、地にあらば連理の枝」と戯れて、お情けの深いことは言うに及ばない。景正のありがたく思う心の内は、例えようもない。
 
 そうして、早一年が過ぎる頃、父の忠重卿が二人の関係を知り、「賤しい身で、息子をたぶらかすとは憎い仕業だ。」と、景正に無実の罪を着せ、殺すことを企んだのだった。 【“心友記”の続きを読む】

弁慶物語 其の二

 弁慶vs牛若、2回戦です。


 弁慶は、帰路につきながら考えた。「あの男は本当に神でいらっしゃるのか。もし、人間であったなら、信仰心を起こして後に会うのも、思えば恥ずかしいことだ。よし、この三ヶ月は、道心を起こすまい。もしあの男が人間ならば、その間に必ず出会うだろう。会うことが無ければ、揺るぎない信仰心を起こして後生菩提を祈ろうか」

 頃は7月14日の夜、弁慶はいつもの装束で、長刀を杖にして、法性寺の方へ向かった。すると、なんとも上品な笛の音色が聞こえてくる。
 「どこからだ」と、見回せば、例の男が吹いている。「さては神ではなく、人間であったか」と、いっそう無念が増さるのだった。討つ隙があれば、と思ったが、少しも油断がなかったので、そのときは理由も無く逃してしまった。

 また、8月17日の夜、清水寺へ例の男が参るのではと思い、清水寺へ向かった(どういう理屈で…?)。御堂の内を見ると、思ったとおり、例の小男が、御前に念誦しながら座っていた。弁慶は、何か言いがかりをつけて、こいつを座から追い立ててやろう、と考えて、御曹司のそばに近寄り、
 「どこのしきたりでも、出家の者を最優先とする。なれば、御堂の左座(第一の席)は我こそが座るべきであるのに、まったくの俗人の身で左座とは、承知しがたい。」
と、笑った。
 御曹司はこれをお聞きになって、
 「不思議なことをおっしゃるものだ。御身は頭は法師に似ているが、甲冑を着て、悪行を好みなさるゆえ、かえって法師の名をも汚している。出家の姿をしているからには、座を譲って御身を招き入れるべきであろうが、あれこれと欠けた御坊に、何の恐れをなすべきか。」
と、からからとお笑いなさった。

 弁慶は、「これほどの群集のなかにあって、そっけない言葉を使うとは、なによりも無念!」と心の中で思いつつ、
 「どうだ、冠者どの。少し聞きたまえ。我々の間は何かで結ばれているのだろうか、度々お会いするのは不思議なことだ。高言(威張って言うこと)は無用。賭けて勝負を決めようではないか!」
と言うと、御曹司も、
 「それは望むところ。して、何を賭ける。」
 「あなたがお負けになったならば、我に使われなさるように。我が負けたならば、必ずお仕え申そう。」
弁慶がそういうと、御曹司は、
 「日頃、この御坊の手並みを知って、使いたく思っていたところに、天の与えだろうか、嬉しや。是非とも使いたい。」
とお思いになって、
 「なんとも面白い。場所はいずこで。」
と聞くと、
 「五条河原ならば、広々として良い。」
と答えた。二人は連れ立って、清水寺を下向し、五条橋の真ん中を勝負境に定めた。 【“弁慶物語 其の二”の続きを読む】

 9月9日、重陽です。菊の節句です。(といっても、菊なんざぁ何処にも咲いちゃいねぇ;旧重陽は今年は10月11日です。)
 とにかく、重陽という日は、かの有名な上田秋成作・雨月物語収録の「菊花の約(ちぎり)」で、義兄弟となったふたりが再会を約束した日、悲しくも奇跡の再会を果たした日であります。
 よってこの日を勝手に「衆道の日」と制定し、ひそかに盛り上がりたいと思います!
 今日は菊の日。「菊花の約」は周知の物語なので、今回は「菊」についての雑学小話(?)。


◎菊の花言葉
 まあ、まずは菊の基本知識から。菊は中国大陸原産で、奈良時代以後に日本に渡来。品種が非常に多く、各国で栽培されています。
 そんな菊の花言葉は、「清浄」「高尚」「高潔」「愛」「真実」など。色によっても違うようです。なかなかいい言葉が並んでいますね。

 さて、今回「菊」を熱心に取り上げるのは、ご存知の方も多いと思われますが、「菊」という言葉がソレを暗示し、またソノ人を指し、ソコさえも表す言葉だからですねv

◎「菊座とは慈童の時にいいはじめ」
 という川柳があります。この慈童(じどう)というのは、以前「ねなしぐさ」のときにも少しだけ出てきましたが、中国古代・周の穆王(ぼくおう)の愛童で、伝説的少年です。彼のエピソードが「枕慈童」という謡曲になっています。
 それによると、慈童くんは、ある時誤って、主君の御枕をまたいでしまい、その罪で深い山奥へ流されてしまいました。しかし主君のお情けで、その御枕に妙文(お経)を書いて賜り、それを菊の葉に写経して川の流れに浮かべると、その葉は水となった。その水を飲んだ慈童くんは、不老不死の身となり、さらに神のような力を得た、ということです。
 なんら菊座とは関係ない話ですね;これは単なる菊に関係するだけの洒落のようです。ちなみにこの謡曲の中で慈童くんは、「いと美しき童子」と評されており、美少年であることは確かです。
 これを翻案した長唄(歌舞伎舞踊)に「乱菊枕慈童」というのがあります。なにやら春本のタイトルのよーだなぁ;

◎若気
 腐った人にはなじみ深い言葉ですが、やはり「菊座ってなに?」という方もおられるでしょう。そういう方は↑の言葉を辞書で引いてみてください。
 おっと、「わかげ」ではありませんよ。「にゃけ」で引いてください。(広辞苑、大辞林で掲載確認済。)
 
 どうですか?…ねvその外にも、そういう意味があるんですね~。
 知りたくなかったー!!という方、申し訳ございません;同じ「若気」でも、「わかげ」と「にゃけ」では、全く異なるイメージの言葉になるわけですね。いやー、言葉って不思議だ!
 しかしこれでもう、「にやける」なんて言葉を人前で使いづらくなりましたね;腐女子にとって「×××る」のは日常茶飯事なのに…;人から「なに、×××た顔してるの?」なんて言われたら、立ち直れないかもしれません。

 では、最後にお口直しを。件の慈童くんの絵姿です。
 実はこれ、春本の扉絵なんですよ。
(あ、この絵は健全ですからね。)
 ちなみに、雨月物語には「青頭巾」という話があって、そこには可愛がっていた稚児が病で死に、それを悲しんだ和尚が、遺体を食べてしまうという○姦&カニ○リズムな一節があります。そういうと、かなりエログロなイメージですが、文体が美麗なので、そこだけでも読む価値アリです!
 それでは、これからも「衆道」に思いを馳せて…。

弁慶物語 其の一

 義経といえば、弁慶。弁義は誰が言ったか、日本の王道カプの一つです。ですので、ここはやはり、彼らの出会いを取り上げねばなりません。諸本によって設定がやや異なりますが、今回は室町時代成立の「弁慶物語」(中巻)から見てみましょう!


 都にやってきた弁慶は、
 「ああ、良い相手が欲しい。喧嘩でもして、この手持ち無沙汰を慰めたいものだ。」
と言いながら、東寺(教王護国寺)のほうへ向かったが、道ですれ違う人々が、「この辺には夜な夜な天狗がでて、何人斬られたか分からない」と言う。弁慶はこれを聞いて嬉しがり、
 「人間では、満足できん。天狗のようなおごり高ぶったもの(天狗は前世で傲慢であった者がなるという)に、この腕前をみせてやろう。」
と言って、東寺から引き返して都に入り、夜になるのを待った。

 夜になり、洛中をあちらこちらと探し回ったが、天狗と思しき者はいなかった。静かに歩いて行くと、北野天満宮の御前にやってきた。弁慶はその神前の広庭に仁王立ちに立った。
 すると、社壇の前に腰掛けて、念仏している者がいる。美しい着物を召し、薄化粧にお歯黒をして、薄衣をかぶった牛若である。御腰には黄金作りの御刀を召している。

 御曹司(牛若)は、弁慶の姿をご覧になって、
 「何とも異様な。西塔の武蔵坊弁慶という、日本一の愚か者がいると聞いたが、もしやこの者がそうであろうか。」
とご覧になっていると、弁慶もまたこう思った。
 「この男の立派で品格のある様子は…。これがあの噂に聞く牛若殿であろう。なんでもよい。あれほどの小男、なんのことはない。」
 弁慶はなおよく姿を見ようと、念仏をするふりをして、その間に御曹司の姿を見れば、人とは一風変わって、目が輝いていて、前歯は少し出ているが、色が白く気高くていらっしゃった。

 「お持ちになっている御刀を奪うことは容易いが、どれほどの値打ちだろうか。はやいところ打ち落として、見てやろう。」
と弁慶は、御曹司の前を一,二度通り、三度目に、脇に挟んでいた八尺棒をさっと握り直してバシッと打った。御曹司はこれをご覧になって、弾になれた鳥のように、騒ぐこともなく、お刀をするりと抜き、はっしと合わせ、弓杖三杖(7,5m)ほど跳ね退いて、
 「夜陰のことゆえ、人を違えたか。あの御坊は。」
と仰った。弁慶はこれを聞いて、
 「憎い言葉遣いだ。目に物を見せん!」
と言うままに、間髪いれずにかかってきた。

 御曹司は激しい攻撃を受け流しながら、弁慶の手並みをご覧になった。
 「あいつは棒の使い様は上手だが、兵法を知らぬようだから、この御坊に討たれるとは思われない。ならば手並みを見せてやろう。」
と、弁慶の使う八尺棒を、切れ切れにお斬りになったので、弁慶は、「この冠者の太刀さばき、なかなか面白い。ほめてやろう。」と思い、
 「おお、斬ったな、小冠者!」
と、二,三度大声でほめてから、自らの大太刀をするりと抜き、「逃がさん!」と斬りかかった。御曹司は、
 「なんの恨みがあるのか、御坊よ。出家ならば、命は助けるぞ。早く退散しろ。」
と仰った。弁慶はこれを聞いて、
 「お前の命を助けることこそ、この法師の思うままだが、かえって我を許さんというのか。言葉の勝負は無用だ。行くぞ!」
と隙もなくかかってくる。
 御曹司は僧正が谷で兵法を極めた者、弁慶は三塔に隠れもない太刀の使い手。二人はしのぎを削りあい、半時(一時間)ほど戦った。 【“弁慶物語 其の一”の続きを読む】

謡曲・鞍馬天狗

 今年は義経ブームだったんでしょうか?ともかく某テレビ雑誌で、源平講座なるものを面白おかしくやっていたので、便乗して義経を取り上げたいと思います。
 しかし、「平家物語」や「義経記」なんかは有名で、現代語訳本も多く出ているので、スルーします。今回は、義経が幼少の頃に修行した鞍馬山を舞台に、天狗と牛若の物語です。


 鞍馬の奥、僧正が谷に住む山伏が、この鞍馬山で寺の人々が花見をするということを聞きつけて、よそ者ながら、ひっそりと花見を楽しもうと現れた。

 そこへ、大勢の稚児を引き連れた僧たち、そして能力(寺で力仕事をする者)がやってきた。能力は山伏を見付けると、
 「無法者です。追い立てることにしましょう」
と僧に報告した(プライベートビーチみたいなものなんでしょう)。僧は
 「しばらく。なんといっても、このお席というのは、源平両家の若君たちがおいでになるのですから、そのような部外者は適当ではありません。しかし、こういうと、人によって区別するようなことになりますから、ここの花は明日ご覧になるのがいいでしょう。まずはこの場を離れて、奥の花を見に行きましょう。」
そういって、僧や能力、稚児たちはみな、奥へ行ってしまった。そんななか、一人残った稚児は牛若である。

 「花を見るにあたっては、貴賎や親疎の区別をしない、というのが春の決まりごとだと聞いていたのだが…。鞍馬寺の本尊は、大慈悲の多聞天であるのに、なんと慈悲心のない人々であろうか…。」
そう、山伏がつぶやくと、牛若が声をかけた。
 「本当に、花の下で半日、月を前に一夜をともに過ごすだけでも、互いに親しみが生まれるものなのに…。ああ、気の毒なこと、こちらへ寄って花をご覧下さい。」
 「思いもよらないお言葉です。声さえ立てない私にお声をかけてくださるとは。人々の間に立ち交じることもしませんので、この山に私が住んでいることを知っている人はいませんのに。」

 『こうしてあなたとお付き合いをするのは、人々の物笑いの種を蒔くようなものだろうか。しかし…
 この恋心をもつ老人を嫌わないでください、垣穂の梅のような美しい君よ。それでこそ情けある花なのだ。花には春になれば咲くという定めがある。だが、人は一夜睦み合ったところで、あとはどうであろうか。ふとしたことから心惹かれて上の空になり、親しむことは進まないのに、恋心だけがつのる。馴れ初めたことが悔やまれる。』 【“謡曲・鞍馬天狗”の続きを読む】

徒然草 其の四

 今回も稚児の話。第五十四段です。


 御室(仁和寺)に、すばらしい稚児がいた。その稚児をなんとかして誘い出して遊ぼうとたくらんだ法師どもがいて、芸達者な遊僧などを仲間に引き入れて、しゃれた破子(わりこ:弁当箱)のようなものを、丁寧に作り、それをまた箱のようなものに入れて、双が丘(ならびがおか)の都合の良い場所に埋め、その上に紅葉を散らしたりして、そんなところに破子が埋まっているなど想像できないようにようにして、御所(住職のいる御殿)に参った。そして、稚児を上手くそそのかして誘い出した。
 法師どもはうれしく思って、ここかしこと遊びまわって、先ほどの苔の一面に生えている所に並び座って、
 「ひどく疲れてしまった。ああ、紅葉を炊いて酒を温めてくれる人がいたらなぁ。霊験あらたかな僧達よ、祈り試みられよ」
などと言い合って、破子が埋めた木の元に向かって、数珠を押し揉み、大げさに印を結んで、仰々しく振舞って、木の葉をかきのけたけれど、全くなにも出てこない。場所を間違えたのかと思って、くまなく山を探しまわったが、出てこなかった。
 破子を埋めているのを、誰かが見ていて、法師達が御所へ参っている間に盗んでしまったのだろう。法師どもは、その場を取り繕う言葉もなくて、口汚く争って、腹を立てながら帰っていった。
 あまり面白くしようとすることは、必ずつまらない結果になるものだ。


 
 稚児は冷ややかな目で法師たちを見ていたことでしょう。「コイツら、バッカじゃねえの」と思ったことでしょう。徒然草を読んでいると、仁和寺にはまともな僧は一人もいないんじゃないかと思いますね;大丈夫なのか?
 さて、今回は男色譚としては全然ですが(でも、偉い人が…)、稚児について知れるいいお話だったと思います。稚児の説明として、「寺で召し使われる少年。男色の対象にもなる。」なんて書かれているのを読むと、なんだかすごく可哀想な存在に思えますが、この子のように、アイドル的な扱いを受けている子もいたわけです。稚児というのは多くは、学問や社会勉強のために、寺院に預けられた高家の子息ですから、無体なことはできないのです。すべての稚児が、いい扱いを受けていたとは言い切れませんが、説話集などで色々な稚児話を読むと、少なくとも「可愛がられていた」ということは言えそうですね。
 それにしても、徒然草全般について思うのですが、兼好法師のシメの感想というか、まとめの言葉は、「いや、そうじゃないだろ!?」と言いたくなるのが多い気がするのは、拙僧の脳みそのシワが少ないからですか?本居宣長に、「ひねくれたカッコつけ親父が!」(いや、そうは言ってなかったけど)と酷評されていたのは小気味良かったです。