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梅色夜話

◎わが国の古典や文化、歴史にひそむBLを腐女子目線で語ります◎(*同人・やおい・同性愛的表現有り!!)

狗張子 其の一(後編)

 服部新五郎遁世捨身

(つづき)
 徳之丞は卯月の初めより、なんとなく患い出した。様々に治療をしたけれども、まったく効目がない。
 新五郎も、気を揉んで、いろいろな手当てをし、薬を用いるばかりでなく、神仏に願を懸け、祈りを捧げたけれども、とうとうその験はなかった。
 今はもう、助かる見込みもなく、「その時」を待つしかなかった。親一族は徳之丞の手を握り、何をしようと思うこともできなかった。
 そのとき、徳之丞はむくと起き上がり、苦しい中にも新五郎の手をとって
 「末の露浅茅(あさじ)がもとを思いやる我が身ひとつの秋の村雨…」
と言うかと思えば、息はすでに絶え果てていた。
 新五郎は悲しく、寂しく、心惑い、「すぐに跡を」と嘆いたけれども、それも叶わず、野辺の送りをして、徳之丞を墓へ埋葬した。新五郎はその墓の前で髻(もとどり)を切り、家にも帰らず、すぐに出家した。
 「のがれてもしばし命のつれなくハ恋しかるべきけふの暮かな」
そう詠んで、足に任せて旅にでた。 【“狗張子 其の一(後編)”の続きを読む】
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狗張子 其の一(前編)

 狗張子…作:浅井了意。元禄5(1692)年刊。

 服部新五郎遁世捨身 巻の五
 服部新五郎(上杉家家人)×名草徳之丞(14→17)


 上杉憲政(のりまさ)の家人、服部新五郎は、能書家で、和歌を好み、情けの深い武士であった。色を好むことはなく、「心の合う人がいれば、契りを結んで、後の世までも心を離さないでいたい」と思っていたので、まだ妻もいなかった。
 久我の住人に名草徳大夫という、気立ての優しい男がいた。その息子の徳之丞は14歳。田舎の子とはいいながら、見目美しく育ち、心やさしく、立ち振る舞いも上品であった。
 新五郎はこの子を見初めて、なんとかして縁を求めて近づいた。手習いの指南に通じていたので、徳之丞に、四書五経までしっかりと教えてやると、父親も大切なお客さまだ、と思って、随分と親しくした。 【“狗張子 其の一(前編)”の続きを読む】

男色大鏡 其の五

 東の伽羅様 巻二の(四)
 伴の市九郎(津軽町人)×小西の十太郎(仙台町人)

◎香りに一目惚れ
 仙台城下に小西の十助という薬屋があった。その暖簾の隙間から、一炷(ひとたき)の香の薫りがもれてきた。市九郎は通りがかりにその高貴な余香を聞いて、その香を袖に留める人を慕わしく思い、店先に立ち寄った。「奥から聞こえるあの香木をいただきたい」と言うと、主人は「倅がたしなんでいる伽羅ですから、それは思いもよりません」とつれない返事をした。それを聞いて、ますます恋焦がれて、しばらく店先で休んでいた。

◎粋な姿に一目惚れ
 市九郎が、江戸を目指しているのは、今堺町で評判の出来島小曝(できしまこざらし:歌舞伎の若衆方のち若女方)に恋焦がれ、若衆買いをせんためである(かなりの衆道好きだ)。田舎にはまれな身のこなしの人であった。
 この市九郎の粋な姿を、十太郎が見初めて、「私が今若衆盛りだといっても、あと五年も続くわけではない。今まで数百人から恋文をもらったが、開いてもみなかった。人々から情け知らずだといわれたのも、気に入った兄分が見つからなかったからだ。今の男がもし私の心を不憫と思ってくれるなら、命がけで懇ろしたい」と、にわかに口走って乱心した。乳母が「今の旅人を呼び戻して、お願いどおりになさったら」というので、十太郎はしばらくは心を落ち着けた。 【“男色大鏡 其の五”の続きを読む】

衆道のいろは 二

 今回は男色大鏡二巻の(三)から、衆道カップルのお付き合いの様子の一端を覗いてみようかと、思います。
 次の文は、左内という若侍が、勘右衛門という男の死に際して、元服する前、彼と交際していたときのことを語る場面です。ちなみに原文。( )内にちょっとした注を付けてみました。漢字の送りや特殊なものは今風に改めたものもあります。改行は読みやすいように。気楽に読んでみて!


 「堺、昌雲寺の庭(の趣)を此処に移して、蘇鉄うへ替えらるる日、是なる岩に腰かけながら、まかせ水(庭を流れる水)を手に請けてあまりをうしろに、人の有ともしらずまけば、『ぬれたい折ふしに、かたじけない』と、声ひくうしていはれし勘右衛門殿いとをしく、其後いつともなくたはぶれて、
 世のそしりは大事か(かまわず)、親仁神前の御番をかんがへ(父親が春日大社で夜勤をしている時を見合わせて)、遠き高畠よりしのびて通ひしに、うれしき事はわすれもやらず。
 風ふきて雪の夜、かならずまいるのよし、昼より文つかはしければ、我が家居近くむかひに来たりたまひ、肩車にのせて、懐より具足着たる金平(人形)を(取り出して)たまはりける。道すがら切合い事(切合うまね)して、その夜は勘右衛門寝すがたを馬にしてのれば、よき御大将と申されしが」

 
 元禄文も結構読めるもんでしょ?勘右衛門殿との運命的な出会い(低い声ってのがまた良いv)。親には秘密の逢瀬(ラブラブやんけ)。そして夜の戯れ…v。彼らは5年あまりも親密な交際を続け、左内が元服して衆道の関係を解消したあとも、頼もしい後ろ立てになってもらうつもりでいた、ということです。
 もちろんこれは井原西鶴という、浮世草子作家が書いた小説の一部分なので、フィクションといえばそうなのですが、実際の衆道カップルにも、こんなカンジのお付き合いをしていた人たちがおるんではないか、と。想像(妄想?)したって許されるんじゃないでしょうか。

男色大鏡 其の四

 傘持ってもぬるる身 巻二の(二)
 神尾惣八郎(21)(武士)×長坂小輪(小姓)(13)

◎孝行少年小輪
 明石から尼崎に向かう使者堀越左近が、生田で急に降り出した雨に難儀していると、12,3歳の美少年が、傘を持ってしかしそれをささずにやってきた。そして左近に「お貸ししましょう」と言って渡したのだった。
 左近が「御好意は有難いが、傘を持ちながらご自分が濡れていらっしゃるのはなぜですか?」と問うと、小輪は涙を流しながら、「父が浪人の時病死したので、土地の人のお情けを受けながら、母は世を渡る技に男のする傘細工をしております。それを思うと天の咎めも恐ろしくて傘をささないのです」と言った。
 この心がけに感心した左近は、明石に帰るとすぐに殿に小輪のことをお話申し上げた。殿は「すぐに連れて来い」と仰せられ、左近は車で小輪母子を迎えにやった。
 
◎殿の御寵愛vs小輪真実の恋
 殿の小輪を愛することはこの上もなく、ある時は「お前のためならば命を捨てる」とまで仰られたが、小輪はそれを有難いとは言わず、「御威勢に従うのは誠の衆道ではありません。私も心を磨いて、執心を懸けるならば命に代えて親しみ、浮世の思い出に念者を持ってかわいがってみたいです」と言う。殿は苛立ち、その言葉を座興にしてしまおうとしたけれど、「いまの言葉は神に誓って偽りではございません」とまで言う。殿はあきれて、その気性の強さをかえって憎からず思われるのだった。
 そんな小輪に、惣八郎という恋人ができた。互いに文で恋心を伝える日々を過ごしていたが、或る晩、とうとう忍びあうことができた。それも殿の御寝所の隣の部屋で(大胆すぎる!!)
 手筈通りに忍んで来た惣八郎と会い、まずは帯も解かず、この上もない情けをかけあい(ちとえろいv)、「二世までも」と誓いの言葉を交わした。
 その声に殿は目をお覚ましになり、「人音、のがさぬ」と槍を持って駆け出そうとなさるのを、小輪は御袂にすがっていろいろと取り繕い惣八郎を逃がしてやった。殿もようやくお許しになろうという時、金井新平という隠し目付けが「さばき頭に鉢巻をしている男を見ました」と言う。殿が「ぜひとも白状せよ」と仰るので、小輪は「小輪に命をくれた者です。たとえこの身を砕かれても申しません。このことはかねて御耳に入れておきましたのに」と、嘆く様子もなかった。 【“男色大鏡 其の四”の続きを読む】

男色大鏡 其の三

 形見は二尺三寸 巻二の(一)
 片岡源介(26)(元武士)×中井勝弥(小姓)(18)
 
◎旅立ち
 いらなくなった反古を片付けていた勝弥は、偶然に発見した亡き母の書置きによって、父の敵を知ることとなった。
 勝弥は14のとき、殿様が御駕籠から「あの子は」と見初められ、その日から御奉公申し上げる身となったのだった。それ以来、身に余るほどの御寵愛を受けてきたが(とにかくものすごい寵愛ぶり!お姫様みたい)、先月初めごろから、殿の御心は、千川森之丞というものに移ってしまった。
 しかし、これも武運の尽きていない証拠。もし御寵愛を受けている真最中なら、敵討のための暇乞いをしても、簡単にはお許しされなかっただろう。勝弥は殿のご機嫌のよいときを見計らって、暇を申し上げ、かねてからの忠実な家来五人をつれて旅に出た。

◎再会
 耳塚というところで、勝弥は大男の乞食にであった。顔をよく見ると、かつての朋輩、片岡源介だった。源介は江戸にいた頃、勝弥に執心の手紙を何通も送っていたが、殿の寵愛を受ける身なので、返事も出来ないままでいた。勝弥はふたたび出逢えてうれしいこと、敵討の仔細などを話し、夜を過ごした。
 夜が明けて、別れの時がきた。源介は、仕込み杖の刀を取り出し、「これは大原の実盛の二尺三寸である。これで敵を討ってください」といって勝弥に渡した。勝弥はそれを頂戴して、「まもなく敵を討って再びお目にかかります。それまでの形見に」と、差し替えの刀を残して出発した。 【“男色大鏡 其の三”の続きを読む】